懐仁親王を授かる
円融天皇の女御として、宮中での生活を送っていた詮子。天元3年(980)、天皇との間に懐仁(やすひと)親王を授かりました。詮子は懐仁親王を溺愛したそうで、兼家も皇子の誕生を大変喜んだとされています。
また、当時は夫婦の間に生まれた子どもは、母方の親族によって養育されるのが通例でした。そのため、懐仁親王を天皇の座につけることで、兼家は外祖父として権勢を振るうことができたのです。何としても、皇子を擁立したいと考えた兼家と詮子。
次期天皇となった花山(かざん)天皇の後は、懐仁親王を擁立させるという約束を円融天皇と交わしたそうです。その後、花山天皇を退位させるべく、兼家は天皇に出家を勧めました。花山天皇の退位計画には兼家の次男・道兼(みちかね)も加わっており、彼の口車に乗せられた天皇は、出家せざるを得なくなってしまったのです。
花山天皇が出家したことで、寛和2年(986)、兼家と詮子の望み通り、懐仁親王が一条天皇として即位します。皇太后となった詮子は、長く権力の座につくこととなりました。その後、円融天皇の崩御に伴い、詮子は出家することに。東三条院として、出家後も政治への干渉を続けました。
父・兼家とともに権勢を振るい続けた詮子は、長保3年(1002)、40年の生涯に幕を閉じることとなります。
詮子にまつわる逸話
自身の皇子を即位させ、皇太后という高い地位についた詮子。彼女は、皇子だけでなく、末弟である道長のことも大変可愛がっていたと言われています。兼家の跡を継いで、関白となった嫡男・道隆(みちたか)が亡くなり、彼の息子と道長が権力争いを展開させた際も、詮子は道長を支持しました。
また、道長の娘・彰子(しょうし)を、一条天皇の中宮(ちゅうぐう、皇后とほぼ同格の后)につけようと画策したのも、詮子であるとされています。この時、一条天皇には既に定子(ていし、道隆の娘)という中宮がいました。
詮子は、道長の家系を繁栄させるべく、定子を中宮としたまま、彰子も入内させようと考えたのです。詮子の策が功を奏し、道長は3代の天皇の外祖父となって、栄華を極めることができました。道長の日記『御堂関白記』の中には、詮子に深く感謝した道長が、彼女の供養を両親と同じように心を込めて行ったことが記されています。
まとめ
一条天皇を擁立させ、藤原氏をさらに繁栄させた藤原詮子。彼女の働きかけがなければ、道長が藤原氏全盛期を築き上げることはなかったかもしれません。男性に負けず劣らず、政治に強い関心を示し、自分の考えを貫き通した聡明な女性だったと言えるのではないでしょうか?
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本人名大辞典』(講談社)