関ヶ原の戦いでは、最後まで豊臣方として戦う
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、西軍に属し、最後まで豊臣方として戦います。しかし、西軍の敗戦が決定的となった時、義弘は徳川家康の本陣に向かって捨て身の敵中突破を敢行(島津の退き口)。
義弘の本隊が撤退するときに、小部隊がその場に留まり、追ってくる東軍と戦い、足止めするという戦法。そうして敵軍と戦っていた小部隊が全滅すると、また新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをし、義弘の本隊を、関ヶ原から逃げ切らせた。
その後、海路を経て薩摩国に戻り、義弘は向島(桜島)に蟄居しました。1,500名ほどの兵士のうち、帰還できたのはわずか数十人ほどであったそうです。
このエピソードは、当時の人々の語り草にもなりました。
合戦後、改易を免れる
関ヶ原の戦い後、島津家の当主となっていた忠恒(義弘の三男)が上洛し、家康に謝罪をします。このことにより、島津家は、薩摩国・大隅国60万5,000石を安堵されました。
その後、義弘は慶長11年(1606)帖佐より平松(=現在の姶良町)に移り、翌年加治木に隠棲しました。
そして、元和5年(1619)7月21日、85歳でその生涯を閉じます。義弘が亡くなった時、家臣13人がその後を追って殉死したそうです。この時、殉死は禁じられていました。しかし、それを押してでもついていきたい魅力が義弘にはあったことがうかがえます。
まとめ
島津義弘は、生涯で52回の軍功をあげた勇将です。九州統一、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いにおいても、常に戦地最前線で指揮をとっていたと言います。
武の印象が強い義弘ですが、一方で千利休から直接茶道の指南を受けたり、朝鮮から陶工を招致したりと、文化面でも優れた武将でもありました。この陶工招致は、今も薩摩焼として形を残しています。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/京都メディアライン
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引用・参考図書/
鹿児島県姶良市ホームページ
『国史大辞典』(吉川弘文社)
『世界大百科事典』(平凡社)