はじめに-直江兼続とはどんな人物だったのか?
直江兼続(なおえ・かねつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将です。名門・上杉氏の家臣として、謙信・景勝(かげかつ)の2代にわたって活躍しました。特に、景勝の代では執政として、軍事面から政治面に至るまで、幅広く手腕を発揮しています。
後に「直江版」と呼ばれる出版事業を興すなど、武芸だけでなく学問にも秀でていたとされる兼続。文武両道というイメージがありますが、実際の直江兼続はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、上杉家の政治・外交を担う参謀(演:TAKAHIRO)として描かれます。
目次
はじめに―直江兼続とはどんな人物だったのか?
直江兼続が生きた時代
直江兼続の足跡と主な出来事
まとめ
直江兼続が生きた時代
直江兼続は、永禄3年(1560)に生まれます。兼続が生まれた年には、信長と今川義元が戦った「桶狭間の戦い」が勃発しています。有力武将である義元を倒したことで、一躍有名になった信長。破竹の勢いで勢力を拡大していきますが、その時の信長ですら、越後国(=現在の新潟県)の上杉謙信には頭が上がらなかったそうです。
兼続は、数多くの武将の中でも一目置かれた上杉氏の家臣として、生涯を通して忠誠を誓うこととなるのです。
直江兼続の足跡と主な出来事
直江兼続は、永禄3年(1560)に生まれ、元和5年(1620)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
上杉氏に仕える、直江氏の後継者となる
直江兼続は、永禄3年(1560)、越後国与板城(=現在の新潟県長岡市にあった城)の城主・樋口兼豊(ひぐち・かねとよ)の子として生まれます。直江氏は上杉氏の重臣として代々仕えており、兼続の父・兼豊も上杉氏の血を引く長尾政景(まさかげ)に臣従していました。
そのため、兼続は幼少の頃から、上杉氏と深い関わりを持っていたのです。その後、家臣として上杉謙信に仕えることとなった兼続。容姿が良く優れた才能を持っていたとされ、謙信から寵愛されていたと言われています。
天正10年(1582)、兼続は22歳にして直江氏の後継者となります。その後まもなく山城守(やましろのかみ)を称して、謙信の養子・上杉景勝に仕えるようになりました。
執政として、景勝を支える
謙信に仕えた後、景勝の側近となった兼続。検地総奉行(検地を執行する責任者)や蔵入地奉行(大名の直轄地を管理する責任者)を務めるなど、執政として景勝を支えました。一方で、軍事面でも兼続は手腕を発揮しています。
謙信の死後、景勝ともう一人の養子・上杉景虎(かげとら)との間で後継者争いが勃発した際、兼続は献身的に景勝を支えました。兼続の支えが功を奏し、景勝は見事景虎に勝利。正式な上杉氏の後継者になることができたのです。これを機に、景勝はより一層兼続を信頼するようになったと言われています。
その後、景勝は秀吉に仕えるようになりました。この時、二人の間を取り持ったのも、兼続だったと考えられています。景勝とともに、豊臣政権を支えることとなった兼続。慶長3年(1598)、景勝が会津に移封された際には、兼続も6万石の知行(領主の所領を支配する権利)を与えられました。
転封の際、五大老(豊臣政権の最高顧問)にも抜擢されるなど、景勝は豊臣政権下で急成長を遂げます。しかし、秀吉の死後、景勝は同じく五大老のメンバーだった家康と対立することに。理由として、兼続が石田三成と親しかったことなどが挙げられます。
「関ヶ原の戦い」が勃発する直前には、家康が会津征伐に向けた準備を始めており、まさに一触即発の状況になっていました。この時、兼続が「直江状」と呼ばれる、家康を挑発する内容の手紙を送っていたと言われることがありますが、偽文書という説もあり、真相は分かっていません。
「関ヶ原の戦い」の際は、会津から出兵し、景勝とともに東軍に与した伊達政宗や最上義光(もがみ・よしあき)らと戦った兼続。しかし、本戦で三成率いる西軍が敗北したことで、家康に降伏せざるを得なくなってしまったのです。戦後、すぐに家康に降伏したことで、上杉氏の滅亡は何とか阻止することができました。
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