和宮とともに、徳川家存続に尽力する
文久2年(1862)、皇女・和宮が14代将軍・家茂の正室になりました。「和宮降嫁」と呼ばれるこの政略結婚は、悪化した朝幕関係を修復するために画策されたもので、皇族を政治的に利用したとして、幕府は非難を浴びます。
また、武家出身の天璋院と、公家出身の和宮は、生まれ育った環境が全く異なります。そのため、最初は分かり合えないことも多くあったそうです。円満な関係ではなかったとされる天璋院と和宮。しかし、家茂の病没後、倒幕運動が活発化したことを受け、2人は手を取り合うようになります。
慶応3年(1867)、15代将軍・慶喜が大政奉還を受け入れると、王政復古の大号令(武家政治を廃し、天皇親政を宣言する号令)のもと、討幕軍が江戸に迫ってきました。徳川家の滅亡を回避させるべく、2人はそれぞれの実家である京都の宮中と、倒幕軍の中心だった薩摩藩に使者を送り、徳川家の存続を訴えます。
特に、江戸城無血開城に関しては、天璋院が西郷隆盛に送った手紙の功が大きいと考えられています。江戸城を明け渡す際も、官軍(新政府軍)の勢いに怯えて逃げ出す幕臣がいる中で、天璋院は大奥の代表として最後まで留まったそうです。
天璋院と和宮の努力が功を奏し、徳川家は明治以降も存続することとなりました。
徳川家を支え続けた天璋院の素顔
明治維新後、天璋院は、まだ幼い徳川家16代当主・家達の養育に専念するようになります。天璋院は「質実剛健」を教育方針として掲げ、家達に綿織物しか着せなかったそうです。質素な生活を続ける天璋院を心配し、島津家は生活費や養育費を援助しようとしますが、彼女は一切受け取りませんでした。
明治15年(1882)、天璋院は、20歳になった家達と近衛家出身の泰子(ひろこ)を結婚させます。その2年後、長男の家正(いえまさ)が誕生しますが、天璋院は彼の顔を見ることなく、明治16年(1883)に48年の生涯に幕を閉じました。
天璋院は非常に毅然とした性格で、徳川家の後見人格となった勝海舟は、彼女の芯の強さを称賛したそうです。また、最初は仲違いしていた和宮とも親しくなり、彼女が亡くなった際には深く悲しんだと言われています。
徳川宗家には戦前まで、天璋院の月命日に彼女の好物を供える風習があったとされ、徳川家の人々に愛されていたことが窺えます。
まとめ
明治時代に入ってからも、最期まで徳川家を支え続けた天璋院。責任感が強く、聡明な人物であることが分かりました。徳川家の未来を少しでも良いものにするべく尽力し続けた天璋院は、誰よりも徳川家のことを大切に思っていたのではないでしょうか?
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)