家康に接近、数々の功績をあげる
秀吉の死後、高虎は家康に接近し、彼に仕えるようになります。秀吉に仕えていた頃から、家康と親交があったそうです。「関ヶ原の戦い」が始まる前、多くの家臣たちは、三成と家康のどちらに味方するべきかで悩んでいました。そのような状況で、高虎は家康に仕えるという意思を明確に示したのです。
高虎は、常に自分の立場を明らかにするべきだと考えていたそうです。ほかの武将が互いの顔色を窺う中、すぐに自分に仕えることを決めた高虎のことを、家康は深く信頼したと言えるでしょう。
慶長5年(1600)、「関ヶ原の戦い」が勃発すると、東軍に寝返った小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)とともに、西軍・大谷吉継(よしつぐ)率いる部隊を壊滅させた、高虎。西軍の敗北を決定的なものにした功績を称えられ、12万石を加増、今治城(現在の愛媛県今治市にあった城)の城主となりました。
さらに、慶長13年(1608)、伊賀1国と伊勢8郡に移されたことで、総石高は23万石近くまで増加しました。これは、豊臣方との戦いに備えた上での転封だったと言われています。実際、慶長19年(1614)に「大坂冬の陣」が勃発した時には、大坂から近い場所にいた高虎が先鋒を務めています。
翌年の「大坂夏の陣」でも、先鋒を務めた高虎。真田氏の攻撃を受け、危機に瀕していた家康を命がけで助けるなど、大きな功績をあげました。
家康から最も信頼された武将の晩年
二度に渡る「大坂の陣」に勝利したことで、正真正銘の天下人になることができた家康。命の恩人ともいえる高虎に深く感謝し、加増を重ねたそうです。元和3年(1617)には、32万3950石の領土を有するようになった高虎。外様でありながら家康臨終の際には枕元に招かれるほど信頼されたそうです。寛永7年(1630)、75年の生涯に幕を閉じるまで、徳川氏を陰ながら支え続けたのです。
まとめ
数々の武将に仕えた末、家康のもとで手腕を発揮した藤堂高虎。高虎は、「今日が自分の命日であるという覚悟を持って、毎日真剣に生きるように」と、家臣団に常々語っていたと言われています。激動の時代を生き抜いた高虎だからこそ、日々を無駄に過ごさないことの大切さを痛感していたのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)