敗れて八丈島へ。50年後、当地で没する

関ヶ原の戦いに敗れ、秀家は同じ西軍の薩摩・島津家を頼ります。その途中備前屋敷へ寄り、豪姫と数日過ごしたとも伝わっています。やがて島津と徳川の和睦がなり、秀家は幕府に出頭。島津や豪姫の兄・前田利長(まえだ・としなが)らの懇願により死罪は免れたものの、久能山(くのうざん)に幽閉されたのち、慶長11年(1606)、2人の子息、近侍とともに八丈島へ配流されました。豪姫も同行を希望しましたがかなわず、前田家で余生を送ります。

八丈島にある、宇喜多秀家と豪姫の像

秀家は剃髪して「休福(きゅうふく)」と号し、明暦元年(1665)、84歳で亡くなるまでの50年間をこの島で過ごしました。八丈島は陸の孤島ともいわれる厳しい環境。豪姫は夫と息子らの身を案じ続けます。その様子を見て、加賀の3代藩主・前田利常(としつね、豪姫の弟)が幕府と交渉し、1年おきに八丈島に物資を送ることが許されました。以来、なんと明治2年(1869)に一族が赦免されるまで、白米、金子、衣類、雑貨、薬品などの仕送りが続けられました。

イケメン伝説

秀家は、有名な肖像画を見てもわかるように、目のぱっちりしたなかなかの美男子。初めて秀家に会った秀吉はその端正な面差しに驚き、信長も「実に涼やか」と感嘆したとか。

しかも、後年、着ていた鎧から推察するに身長は170㎝ほど。当時の男性の平均身長が156㎝ほどといいますから、かなりの高身長です。家柄よし、面差しよし、高身長の秀家が秀吉を訪ねて大坂城にやって来たときは、城内の女人たちがざわついたというのも納得。

秀吉の影響もあるのか性格的にも派手だったようで、茶道や能、鷹狩など趣味に多額の費用を投じる一面があったようです。

まとめ

宇喜多秀家の前半生は、多くの戦いで豊臣秀吉に従軍、文禄・慶長の役でも武功を上げ、ついには最年少で五大老の一人となるなど、飛ぶ鳥落とす勢いで出世街道をひた走りました。そして生涯、秀吉と豊臣家への恩義を忘れず、関ヶ原の戦いでは孤軍奮闘ともいうべき戦いぶりをみせました。

結果、前半生よりも長い50年の月日を流刑地で過ごした秀家。同じ五大老だった家康の老獪さに比べ、若さゆえまっすぐだった悲運の勇将といえるのではないでしょうか。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/深井元惠(京都メディアライン)
HP: https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
岡山シティミュージアム
日本大百科全書(小学館)
国史大辞典(吉川弘文館)

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