はじめに-ウィリアム・アダムスとはどんな人物だったのか?
ウィリアム・アダムスは、家康の外交顧問として活躍したイギリス人です。イギリス艦隊の船長を務めたのち、オランダに渡って水先案内人としてリーフデ号に乗船します。彼の乗った船が豊後国(現在の大分県)付近に漂着したことで、日本とオランダの交流が始まることとなりました。
オランダとイギリスはカトリックの国ではなかったため、イエズス会の宣教師たちは、彼らとの交流を反対したそうです。しかし、家康はアダムスたちの話を聞き、外交についてだけでなく、数学や幾何学、航海術についても学んだのです。
初めてサムライの称号を得た外国人として知られているウィリアム・アダムス。実際のウィリアム・アダムスは、どのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、対外関係に悩む家康の相談相手となり、外交顧問として重用されたイギリス人航海士(演:村雨辰剛)として描かれます。
目次
はじめに-ウィリアム・アダムスとはどんな人物だったのか?
ウィリアム・アダムスが生きた時代
ウィリアム・アダムスの足跡と主な出来事
まとめ
ウィリアム・アダムスが生きた時代
ウィリアム・アダムスは、1564年(日本では永禄7年)に生まれます。アダムスが生まれた頃は、ヨーロッパ諸国が遠洋航海に乗り出した「大航海時代」にあたります。日本にも宣教師たちがやってきたように、キリスト教の布教や交易を求めて、地球規模での航海が行われていたのです。
大航海時代の先陣を切ったスペインとポルトガルの全盛期が終わると、スペインから独立したオランダや、エリザベス1世の治世で栄えたイギリスが、強国へとのし上がりました。そのような時代の中で、イギリス人のアダムスは船に乗って、日本にやってきたのです。
ウィリアム・アダムスの足跡と主な出来事
ウィリアム・アダムスは、1564年に生まれ、元和6年(1620)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
日本に漂着する、家康と面会する
ウィリアム・アダムスは、1564年、ロンドンの南東に位置するケント州で生まれたと言われています。青年期に造船所に務めたのち海軍に入り、イギリス艦隊の船長を務めました。1598年、オランダに渡ったアダムスは、ロッテルダム会社(当時のオランダにあった会社)の東洋派遣艦隊・リーフデ号の航海士として、アジア渡航に参加することになります。
太平洋を通って、アジアを目指したリーフデ号。しかし、途中でスペインやポルトガルの船から襲撃されたり、嵐に見舞われたりと災難が続きました。何とかアジアにたどり着くも、多くの乗組員が途中で命を落としてしまいます。アダムスは、無事日本に漂着することができた、数少ない生存者の一人だったのです。
現在の大分県付近に漂着したとされるアダムスたちの船は、豊臣政権下で力を有した家康の命を受けて、大坂に回航されます。当時、日本のイエズス会にいた宣教師たちは、カトリックの信者でした。そのため、彼らはカトリックを信仰していないイギリスやオランダ出身のリーフデ号の乗組員たちとの交流を、猛反対したそうです。
しかし、大坂でアダムスたちと面会した家康は、彼らが海賊でないことが分かると、外交顧問に抜擢したのです。
【家康から「三浦按針」という日本名を与えられ、外交顧問に重用される。次ページに続きます】