家康から「三浦按針」という日本名を与えられ、外交顧問に重用される

再び家康の命で、リーフデ号は大坂から浦賀へと回航しました。かねてより、関東貿易を望んでいた家康にとって、海外からやってきたアダムスとの出会いは、願ってもない契機だったと言えるでしょう。家康はアダムスに、日本橋近くにある屋敷を与え、三浦半島の逸見(へみ=現在の神奈川県横須賀市)に知行地(大名が家臣に与えた土地)も給しました。

また、アダムスは、家康から「三浦按針(みうら・あんじん)」という日本名を与えられています。「按針」には水先案内という意味があるため、三浦半島の水先案内人という名前であることが分かります。リーフデ号に同乗していたヤン・ヨーステンとともに、家康の外交顧問として活躍しました。

外交の諸問題だけでなく、数学や幾何学、航海術などを家康に教え、大きな影響を与えたとされます。また、日本事情についてまとめられたアダムスの手紙は、イギリス東インド会社(アジア貿易を目的に設立されたイギリスの勅許会社)を刺激しました。

そして、慶長18年(1613)、イギリス国王・ジェームズ1世の国書を持った使者が平戸へ来航すると、家康は彼らと面会し、貿易許可の朱印状と平戸に商館を置くことを認めたのです。

アダムスが、平戸からロンドンの東インド会社に宛てた手紙の一部(大英図書館蔵) 
慶長18年(1613)12月1日付けの手紙とされる。

役目を果たしたアダムスと、静かに迎えた最期

使者が帰国した後、アダムスにも帰国許可が下りましたが、結局そのまま留まることとなりました。一説では、家康がアダムスを帰国させたがらなかったとも言われています。家康の海外貿易のきっかけを作ったアダムスですが、2代将軍・秀忠の代になると、貿易は平戸のみに限定され、アダムスの役目はほとんどなくなってしまいました。

その後、アダムスは一度も母国・イギリスに帰国することはなく、元和6年(1620)、病気のため57年の生涯に幕を閉じたのです。

まとめ

家康の外交顧問として活躍し、日本とイギリス、オランダを結ぶ重要な役割を果たしたウィリアム・アダムス。日本人の妻との間には2人の子どもがいたとされ、その生涯を日本との貿易に捧げるつもりだったのかもしれません。

遠い異国の地からやってきたアダムスとの出会いは、家康の人生観に大きな影響を与えたと言えるでしょう。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)

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