義父・昌幸の沼田城入城を拒否
慶長5年(1600)、夫・信幸は上杉攻めのため会津出陣を命じられ、父・昌幸、弟・信繁とともに下野国犬伏(=現在の栃木県)に陣していました。その際、石田三成挙兵の密書を受け取ります。3人は協議し、父と弟は石田方につき、信幸は徳川方へつくことになりました。
この時、昌幸らは徳川の陣を離れ、上田城へと引き上げます。その途中にある沼田城へ立ち寄った昌幸と稲姫の間には、有名な逸話がありますのでご紹介しましょう。
沼田城の留守を預かっていたのは、稲姫でした。義父・昌幸らが入城しようとすると、「この城は信幸の城である。敵となった今、この門を開けることはできない」と言って、入城を拒否するのです。
昌幸らは、結局、城外に野営したとか。稲姫は家臣の家族を城にとどめることで、昌幸の軍勢との抗争をも防いだと言います。この稲姫の思慮の深さに対して、昌幸も称賛したそうです。
関ヶ原の戦い後、家康に懸命の取りなしをする
夫・信幸は、父・昌幸の居城である上田城を攻めます。その功によって、父・昌幸と弟・信繁の助命嘆願をし、許されました。この時、稲姫も養父である家康に対して、事態が好転するよう、懸命に取り計らったと言われています。
昌幸・信繁が高野山に配流された後も、信濃の名産品を送り届けるなど、稲姫は気遣いを絶やさなかったそうです。
草津温泉へ向かう途中で、永眠
元和6年(1620)春、稲姫は病気療養のため江戸から草津温泉へと向かいます。しかし、その途中、武蔵国鴻巣(こうのす=現在の埼玉県)の勝願寺で亡くなってしまうのです。この時、48歳でした。
この報を聞いた信幸は、「我が家の燈火(ともしび)が消えたり」と言い、深く悲しんだと伝えられています。
元和8年(1622)、信幸は上田から隣接した信濃松代(まつしろ)に移封され、10万石と旧領の上田沼田と合わせて13万石を与えられました。こうした、真田家10万石の礎を築くことができたのも、稲姫の内助の功が大きかったと言われています。
まとめ
稲姫のエピソードからは、気丈夫でありながら、細やかな愛情を持つ人物だったということが伝わってきます。そうした人物であったからこそ、家族が分断されるような難局も乗り越えられたのではないでしょうか。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/京都メディアライン
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引用・参考図書/
『上田人物伝 小松姫』(上田市マルチメディア情報センター)
『小松姫の墓』(上田市マルチメディア情報センター)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)