秀吉の死後から関ヶ原の戦いでの戦死まで
秀吉の死後、吉継は家康に接近していきます。慶長5年(1600)、家康が会津征伐に向かうと、従軍のため吉継は敦賀を出発。その途中で佐和山城(滋賀県彦根市)にいる石田三成へ使者を送り、三成の子・重家の同行を要請しました。
しかし、三成は家康打倒の計画を告げ、反対に吉継に協力を要請。吉継は「家康と戦うべきではない」と三成を説得しようとしますが、三成の決意を変えることはできませんでした。結果、自身も家康と袂を分かち、敗戦の覚悟をして三成と行動をともにすることになります。
まず、吉継は敦賀に戻った後に挙兵し、前田利長の軍と交戦、撃破します。家康が軍を引き返して西に向かっているとの連絡を受けると、吉継は関ヶ原へ向かうことに。
関ヶ原の戦いにおいて、吉継は松尾山にいる小早川秀秋が不穏な動きをしていたため警戒し、松尾山の北側に布陣。開戦後は、東軍・藤堂高虎や京極高知らと戦います。正午頃、秀秋が家康と内通し、吉継を攻撃。このことを予期していた吉継は迎え撃ち、小早川隊を3度跳ね返したのです。しかし、その直後に自らの指揮下にあった脇坂安治(やすはる)ら4隊も寝返ったため、防ぎきれず吉継は奮闘の末、自刃しました。
大谷隊の壊滅で、戦況は一気に東軍優位へと傾いたのです。
吉継は「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と言い残し、家臣の湯浅五助の介錯を受け、自刃したと言われています。しかし、吉継の首を隠そうとしていた五助は、藤堂高虎の甥・高刑(たかのり)に遭遇。「このことは秘してほしい」と請い、代わりに五助自らの首を差し出したそうです。
その後、高刑は約束を守り、家康が詰問しても首の所在を決して言わなかったと言われています。
病と三成の逸話
吉継は病気のため、関ヶ原の戦いでは白い頭巾で頭を隠していたとも伝わっています。また、やはり病のために馬に乗れなくなっていたため、輿に乗って後方から指揮していたとか。
秀吉に仕える同じ小姓だった三成とは仲がよく、吉継と三成との間にある話が伝わっています。
茶会でお茶の回し飲みをしていた時のこと。吉継に茶碗が回ると頬から膿が茶碗に一滴落ちたことで、その場はざわつき、吉継は茶碗を回せなくなってしまいました。その時、三成が「喉が渇いているので待てない。早く碗を回せ」と告げると、一気にそのお茶を飲み干してしまったとか。 この逸話からも、吉継と三成の仲は相当に深いものであったことがうかがえます。
まとめ
吉継は白い布で顔を隠した姿が印象的です。同時に、茶会で三成が吉継を助けたことや、三成の決意に感化されてともに家康と戦うことを決心したことなど、三成との友情の深さも印象的ではないでしょうか。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『国史大辞典』(吉川弘文館)
敦賀市公式サイト