再嫁前に大事件が…
翌年9月29日、千姫は、伊勢桑名城城主の本多忠政(ただまさ)の長男・忠刻(ただとき)に再嫁します。忠刻は、本多忠勝の孫にあたります。この結婚に際し、忠刻は大手前に邸地が与えられ、千姫は化粧料として十万石を受けました。
この婚儀の前には、大きな事件が起こりました。9月10日深夜、坂崎出羽守直盛 (さかざきでわのかみなおもり) が千姫を奪うため邸に立て籠もったのです。結局、直盛は家臣に殺され、目的は果たせませんでした。
なぜ、このような事件が起こったのか? それは、「大坂城脱出の際、千姫を助けたものには姫を与える」と家康が約束していたにもかかわらず、それが果たされなかったため起きたと言われています。
姫路城へ居を移し、1男1女をもうける
忠刻の父・忠政が姫路へ転封となったため、忠刻とともに千姫も姫路城に移り住みます。忠刻との間には1男1女が誕生しますが、男児は夭逝……。これは「秀頼の怨念」だとも言われ、元和9年(1623)には伊勢慶光院の周清上人に秀頼の供養をお願いしています。
不幸は続き、寛永3年(1626)には忠刻が病没。このことで、家系は途絶えることになり、千姫は江戸城に戻ります。城内の竹橋御殿に住み、落髪して天樹院を称しました。その後、寛永6年(1629)には加賀の前田光高との婚儀の話もあがったと言いますが、双方乗り気ではなかったため取りやめとなったそうです。
その後、千姫は3代将軍家光の姉として大奥などに対して大きな力を持ったと言います。
そして、寛文6年(1666)2月6日、70歳で死去しました。
まとめ
忠刻の死後、千姫は長年後家として過ごしていたため、「吉田御殿」で乱行をしていたのではないかという話が広まり、歌舞伎や講談で脚色されました。しかし、これらは事実ではないと言われています。
二度に渡り出戻りになった千姫を、世間は意地悪な目線で見ていたのかもしれません。そうした人たちは、いつの世にもいるものですね。
文/京都メディアライン
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参考図書/
日本大百科全書(小学館)
世界大百科事典(平凡社)
国史大辞典(吉川弘文館)