はじめに-真田信幸(信之)とはどんな人物だったのか

真田信幸(さなだ・のぶゆき)は、関ヶ原の戦いで父と弟が西軍についたにも関わらず、自身は東軍について戦いました。結果的に、真田家を守ったことで有名です。さて、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。

2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、徳川との対立関係を解消するべく本多忠勝の娘を妻にし、関ヶ原の戦いでは真田家存続のために父と反目する家康に味方するなど、真田と徳川の間で葛藤する人物(演:吉村界人)として、描かれます。

目次
はじめに-真田信幸とはどんな人物だったのか
真田信幸が生きた時代
真田信幸の足跡と主な出来事
まとめ

真田信幸が生きた時代

戦国時代の信濃では武士の自立性が強く、有力大名による信濃全体の統一的な支配がなされませんでした。甲斐の武田氏と越後の上杉氏が勢力を競い合い、武田氏の滅亡後は上杉氏・徳川氏の支配下におかれます。

真田氏は武田・上杉・北条・豊臣・徳川などの有力大名の中で、臣従や対峙を繰り返し、自身の勢力拡大に努めました。

真田信之像(個人蔵)

真田信幸の足跡と主な出来事

真田信幸は生年が永禄9年(1566)で、没年が万治元年(1658)です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。

親子で真田家を盛り上げる

信幸は、真田昌幸の長男として永禄9年(1566)に生まれました。幼名は源三郎です。

天正13年(1585)、沼田城(=現在の群馬県沼田市)をめぐって家康と対立。昌幸が上田城(長野県上田市)に籠城した時、城外で徳川軍を迎撃して大きな損害を与え、有名になります。

やがて昌幸が家康に属したので、信幸は駿府に送られました。この時、家康の養女である本多忠勝の娘を妻としています。 小田原合戦では昌幸とともに秀吉に属して功をあげたので、戦後は沼田城を取り戻すことができました。文禄2年(1593)には秀吉の命により、従五位下(じゅごいのげ)伊豆守(いずのかみ)に叙任します。

関ヶ原の戦いで東軍につく

慶長5年(1600)には、家康の会津征伐に昌幸や弟の信繁(幸村)と従軍するも、石田三成が挙兵したのを知るや、西軍についた昌幸・信繁とは行動を別にして東軍につくことを決意。沼田に帰ります。この時、真田父子が東軍・西軍に分かれて戦うことを話し合った「犬伏の別れ」は有名です。犬伏(栃木県佐野市)にある、話し合いの場となった薬師堂のそばを流れていた川にかかっていた橋は、真田父子の別れ橋と伝わります。

「犬伏の別れ」の舞台となった薬師堂。
ここで真田父子は関ヶ原の戦いについて話し合ったと伝わる。

信幸は後に「信之(のぶゆき)」と名を改めていますが、一説によれば、家康に敵対した父・昌幸の「幸」と信幸の「幸」が同じということで、それをはばかって「之」の字に変えたとも。関ヶ原の戦いの後の文書は、ほとんどが「信之」となっていますが、一部の文書では改名前の「信幸」が使われることもありました。

関ヶ原の戦いをめぐって父・弟と別れた後、領内を昌幸の兵に放火されたため、昌幸の砦を攻撃。そして、決戦のため関ヶ原に向かう徳川秀忠が昌幸の居城である上田城を攻撃した際には、信幸も参加しました。

西軍に属した父と弟の助命を嘆願。次ページに続きます

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