関ヶ原の戦いは、東軍の勝利で幕を閉じます。戦後、信幸は西軍に属した父と弟の助命を嘆願。これが認められ、2人は命を助けられ、流罪で済みました。一方、信幸はこれまでの所領である上野国利根郡2万7000石と父の領地である信濃国小県郡3万8000石に、3万石の加増がなされ、9万5000石を領有して上田城を居城とします。

領国発展への注力

上田城は本丸・二の丸といった中心部は破却されるも、藩主屋敷を建築し、城下町の拡張整備に努めました。上田の城下町は、信幸の時代にその大部分が完成したとされます。農村についても、農民が逃亡することのないように年貢の減免措置を行ない、耕作放棄地を減らす政策を実施。農業の発展のための用水堰の開削やため池の築造も行ないました。

慶長19年(1614)の大坂冬の陣では徳川方の先鋒となり、息子の信吉とともに功をあげます。やがて、信濃国松代に移封され、高井・水内・埴科・更科の4郡で10万石、さらに旧領沼田の3万石をあわせた13万石を領すことに。移封先でも、藩政の整備・新田開発・城下町建設に努めて松代藩の基礎を築きます。

松代城跡。初代・信幸以降、松代藩の歴代の藩主が居城とした。

明暦2年(1656)に隠居し、松代領を嗣子の信政に、沼田領を嫡男の信吉にそれぞれ譲りました。そして、万治元年(1658)に93歳で亡くなります。

長寿であったため、寛永年間の終わり頃には、戦国時代を知る数少ない武将として、将軍・徳川家光などからも尊敬を集めていたそうです。

まとめ

関ヶ原の戦いで西軍が敗れたことにより、昌幸と信繁は最終的に流罪に処されることになりました。しかし、信幸が東軍についたことにより真田家自体は消滅することなく、大名として明治の廃藩まで生き残ることになります。しかしながら、親子で分かれて戦うことになった時は、いろいろな葛藤があったのかもしれません。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/三鷹れい(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『国史大辞典』(吉川弘文館)
上田市デジタルアーカイブポータルサイト

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