⼤河ドラマや時代劇を観ていると、現代ではあまり使われない⾔葉が多く出てきます。一定の理解でも番組を楽しむことはできますが、セリフの中に出てくる歴史⽤語を理解していたら、より楽しく鑑賞できることと思います。
そこで、【戦国ことば解説】では、戦国時代に使われていた⾔葉を解説いたします。⾔葉を紐解けば、戦国時代の場⾯描写がより具体的に思い浮かべていただけることと思います。より楽しくご覧いただくための⼀助としていただけたら幸いです。
さて、この記事では戦国時代に高い価値を示した「茶器」についてご紹介します。
戦国時代には、茶湯が大いに流行しました。茶湯は文化的な行為であるだけにとどまらず、戦国武将にも注目され、政治的な結びつきを強めていきます。
そのような状況下で、茶湯には欠かせない茶器も大いに注目されるようになり、名物とされた茶器には、かなりの付加価値がつけられました。戦国武将の間で贈答品として活用されることも、あったのです。
例えば、織田信長は服属した相手に名物茶器を献上させたり、「名物狩り」と呼ばれる強制買収を実施したりして、名物収集に力を注いでいます。また、松永久秀が信長に対して二度目の謀反を起こした時、信長から「名物『平蜘蛛』(茶釜)を献上すれば、命は助ける」と言われましたが、引き渡しを拒否。一説には、茶釜を抱いたまま火の中に飛び込んだと言われています。
こうしたエピソードを鑑みると、茶器に大きな付加価値がつけられ、同時に多くの情熱が注がれていたことが見えてきます。
目次
戦国時代における茶器バブル
茶器の種類
有名な茶器
まとめ
戦国時代における茶器バブル
戦国時代は茶湯の流行に伴い、茶器も大いに注目されるようになっていきました。有名な茶器が次々と登場し、特に優れた茶器は「大名物」と呼ばれます。
名物としては、足利将軍家の東山名物や、茶湯者珠光の珠光(じゅこう)名物、紹鴎(じょうおう)名物などが有名です。戦国大名や力をつけてきた商人が、こぞって名物を収集しました。織田信長は名物を集める以外にも、部下に与えたり、戦国武将への贈答品にしたりしています。
当時、一種の「茶器バブル」ともいうべき状況にあり、著名な茶器には相当な値打ちがつきました。例えば、豊臣秀吉が九州遠征で博多の大商人である神屋宗湛(かみや・そうたん)と茶会を開いた時、宗湛所有の「博多文琳」という茶入を求めたところ、「日本の国土の半分となら交換します」と宗湛は答えたそうです。
有名な茶器には、中国などで日用品として制作されたものもありました。そのような茶器が、日本の国土の半分の価値や現在の金額で数億円もの価値を持つようになるなど、当時の茶器に対する情熱はすさまじいものであったことが伺えるでしょう。
茶器の種類
一口に「茶器」といっても、いろいろな種類の茶器があります。そんな茶器の種類について、見ていきましょう。
茶入(ちゃいれ)
抹茶を入れる小さな壺。産地によって、中国由来の唐物、日本産の和物、東南アジア産の島物に区別されていましたが、唐物が一番珍重されました。
茶入は名物切と呼ばれる色鮮やかな茶入袋に入れられ、落ち着いた雰囲気の茶入とのコントラストが喜ばれたそうです。
肩衝(かたつき)
茶入の一種。茶入上部の蓋の周囲がすぼまった箇所を「肩」と呼び、これがある茶入を肩衝と称しました。そのうち「初花(はつはな)肩衝」、「新田肩衝」、「樽芝(ならしば)肩衝」は「天下に三つの名物」と称されました。
茶釜(ちゃがま)
茶湯で茶を沸かすための釜。筑前国(福岡県)で作られた「芦屋釜」と下野国(栃木県)で作られた「天明釜(天命釜とも書く)」が著名で、京都でも「京釜」と呼ばれる茶釜が生産されています。
茶壺(ちゃつぼ)
茶を保存するための大きい壺。葉茶壺とも呼ばれました。「天下一の壺」と名高い「四十石(しじっこく)の茶壺」は四十石の農地と交換に入手されたことに由来します。足利将軍家から織田信長、豊臣秀吉を経て、徳川将軍家の所有となりました。
有名な茶器
歴史の闇に消えてしまった茶器もあるものの、多くの有名な茶器が残っています。
初花肩衝
天下三肩衝の「初花肩衝」。元は楊貴妃の油壷であったとも伝わります。初花とは、その季節に一番に咲く花のことで、一説には足利義政がつけたとも。京都の鳥居引拙(いんせつ)、大文字屋栄甫(だいもんじや・えいせい)を経て織田信長に伝来し、その後、嫡子の信忠に譲られたと言います。その後、天正11年(1583)に松平念誓(ねんせい)が徳川家康に「初花肩衝」を献上。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いの戦勝祝いとして、家康から豊臣秀吉へ贈られました。北野大茶会でも使われ、以来その茶道具の随一となります。秀吉の死後は、再び家康に渡り、徳川家に伝来。
付藻茄子(つくもなす)
足利義満からの伝来とされる、なす型の茶入。九十九髪茄子・付物茄子と書くこともあります。松永久秀は付藻茄子を信長に献上して、大和一国を安堵されました。大坂夏の陣で焼けるも、修復されます。明治になって、これを所有していた藤重家から岩崎弥太郎の手にわたり、静嘉堂文庫に収蔵されることに。
まとめ
戦国時代には、現在人でも驚くほど茶器に高い付加価値がつけられ、バブルの様相を呈していました。ほしいものであれば、どれほどのお金を出してでも自分のものにしたいという気持ちは昔も今も同じなのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『国史大辞典』(吉川弘文館)