秀吉に敗れ、自害する
しかし、そんな氏政にも最期は確実に近づいていました。
秀吉による天下統一は進み、残すは関東・東北のみとなります。氏政は、成り上がった秀吉に対して、否定的な考えを持ち続けました。天正16年(1588)に秀吉が聚楽第に後陽成(ごようぜい)天皇を招き、全国の諸大名にも列席を命じた時にも、氏政は欠席。秀吉がたびたび上洛するよう催促するも、北条氏は無視し続けます。
家康(娘が氏直の嫁)が仲介して、何とか北条氏の上洛が実現。まず氏政の弟・氏規(うじのり)が上洛しました。後に、氏政上洛の誓約書が秀吉に渡され、緊張関係は緩和されることに。
ところが、沼田城(群馬県)にいた北条の家臣が対岸の名胡桃(なぐるみ)城を攻撃、占領してしまったことをきっかけに、北条と秀吉の関係は悪化。秀吉が既に出していた大名間の私戦を禁じる「惣無事令(そうぶじれい)」に反すると見なされ、対立は決定的なものとなったのです。
氏政は籠城戦で秀吉と戦うことを決めます。過去に上杉や武田に小田原城を攻撃されるも、防いだという経験から秀吉も追い払えると楽観視していたのでした。
しかし、秀吉の軍事力は氏政の想像を超えるもので、22万という大軍で小田原城を三方面から包囲されてしまいます。北条の城は次々と陥落し、兵士は戦意を損失。秀吉に内通しようとする家臣まで現れ、ついに天正18年(1590)の7月5日、小田原城は開城し、北条氏は秀吉に降伏したのでした。
戦後、氏政は敗戦の責任を問われ、弟・氏照(うじてる)とともに、小田原城下の屋敷で切腹。首は京都に送られ、一条戻橋にさらされました。氏直は家康の娘婿であったことから助命され、高野山に追放されることに。こうして北条氏は滅びたのでした。
伝わる逸話
氏政には2つの逸話が知られています。
1つ目は「汁かけ飯の話」。氏政が飯に味噌汁を2度かけて食べていると、父・氏康が「汁の量もわからないようでは、家臣の心を推測することもできないだろう。北条もわしの代で終わりか」と落胆したと伝わります。
2つ目は「麦飯の話」。ある日、麦の収穫を見た氏政が、「あの麦を炊いて昼飯にしよう」と発言。麦は乾燥や脱穀などの処理をしてからでないと食べることができないことを知らずに「昼飯にしよう」と言った氏政を、信玄は馬鹿にしたと言われています。
氏政が無能であったことを伝える内容の逸話ですが、どちらのエピソードも事実であるかどうかはわかっていません。氏政は北条による関東支配を終わりに導いた人物であることから、「国を滅ぼすような無能な人物だった」というイメージを形成するために作り出された可能性も否定できないようです。
まとめ
氏政は北条の領土を広げるも、情報収集が不十分であったことから正しい判断ができず、圧倒的な力を持つ秀吉に破れ、自身はもちろんのこと、北条氏までも終わらせてしまいました。今も昔も情報収集は大事であることを伝える事例の1つと言えそうです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『国史大辞典』(吉川弘文館)