はじめに-北条氏政とはどんな人物だったのか
北条氏政(ほうじょう・うじまさ)は、関東を支配していた北条氏を自分の代で終わらせた人物として有名な人物です。豊臣秀吉に反発し、小田原城に籠城して最後まで戦うも敗れ去り、自害に追い込まれました。
そんな氏政ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、小田原を拠点に関東六国を治める大大名、徳川家康が秀吉に臣従した後も、独自路線を貫く気骨ある人物(演:駿河太郎)として、描かれます。
目次
はじめに-北条氏政とはどんな人物だったのか
北条氏政が生きた時代
北条氏政の足跡と主な出来事
まとめ
北条氏政が生きた時代
北条氏政の北条氏は関東地方で250万石という広大な領地を有し、一大勢力を誇っていました。検地・貫高制・知行制・家臣団編成などにおいて合理的な仕組みを備えていましたが、関白という中央の論理を主張する秀吉に最後は屈服します。
北条氏政の足跡と主な出来事
北条氏政は生年が天文7年(1538)で、没年が天正18年(1590)です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
北条家の家督を継承し、内政・外交に取り組む
氏政は天文7年(1538)に、北条氏康の息子として生まれました。相甲駿三国同盟成立後、武田信玄の娘(黄梅院)を正室として迎えることになります。永禄2年(1559)には、家督を継承、北条家第4代当主に就任。
当主となった氏政は、内政や外交などにおいてさまざまな取り組みを行います。
家督を継承したころ、当時の関東は天候不順で飢饉や疫病の流行に見舞われていました。そこで、これらの対処策として徳政を実施。また貨幣法である代物法度(だいもつはっと)を改定して、精銭(良質な銭)と地悪銭(粗悪な銭)の法定混合比率を7対3に確立。これをさまざまな商売の取引に適用させました。
氏政は他の戦国大名ともたびたび戦い、領土を広げていきました。永禄4年(1561)には、上杉謙信に小田原城を包囲されますが、これを退けます。この謙信の攻撃を契機に、領国内で禁止していた一向宗の布教を解除する宗教政策の変更を行ないました。
永禄7年(1564)、安房の里見義弘(さとみ・よしひろ)の軍と下総の国府台(こうのだい)で戦い、勝利を収めます。さらには、その同じ年に太田氏資(おおた・うじすけ)の内応とともに、岩槻城(埼玉県)を攻略して武蔵をほぼ平定することにも成功。
永禄10年(1567)、今川氏真とともに甲斐への塩の輸送を停止する処置を実施。信玄が駿河へ侵攻すると、氏政は支援のため出陣、遠江の懸川へも援軍を派遣しました。この出来事により、宿敵であった上杉氏との講和交渉が促進され、永禄12年(1569)に相越同盟が成立します。
これによって、氏政の正室(信玄の娘)は離縁され、甲斐へ送り帰されました。その同じ年、信玄は上野から武蔵に侵入し、10月には小田原城を包囲し、総攻撃を加えます。その後、三増峠(神奈川県)にて激戦が繰り広げられました。この戦いは、戦国時代における大規模な山岳戦として有名です。
天正5年(1577)には、自身の妹(尾崎殿)を武田勝頼に嫁がせて、反織田信長の立場を示すも、天正7年(1579)には徳川家康と組んで武田氏の挟撃を約束。武田と上杉に対抗するために、信長にも接近しています。
天正8年(1580)、勝頼と黄瀬川で対峙しますが、陣中で家督を子の氏直に譲り、当主の座から引退しました。しかし、完全に政務などから手を引いたわけではなく、引退後は「御隠居様」などと敬称され、氏直の政務を支えることに。
【秀吉に敗れ、自害する。次ページに続きます】