はじめに-北条氏政とはどんな人物だったのか

北条氏政(ほうじょう・うじまさ)は、「小田原で滅んだ大名」と言い切るには惜しい人物です。飢饉と疫病に揺れる関東で徳政を行い、貨幣の混合比率まで法定化して市場を整備しました。一方で、上杉・武田・織田と同盟を組み替えながら領国を広げ、最後は豊臣秀吉の天下統一と真正面からぶつかります。

この記事では、北条氏政の生涯を、史実に基づいて辿っていきましょう。

2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、戦国の世に割拠する雄として、描かれます。

北条氏政
北条氏政

北条氏政が生きた時代

氏政が家督を継いだ永禄2年(1559)前後の関東は、戦国大名が領国を「守り、増やし、治める」力を競い合うような時代でした。北条氏は相模の小田原を拠点に、関東各地へ勢力を伸ばしますが、その前には関東管領の上杉輝虎(謙信)の来襲、駿河へ進出する武田信玄との衝突など、強敵が立ちはだかります。

やがて畿内では織田信長が台頭し、天下統一の流れは豊臣秀吉へと引き継がれていきます。氏政が直面したのは、関東内部の争いだけでなく、「全国統一」という大波でした。

小田原の決戦は、まさにその時代の終着点でもあります。

北条氏政の足跡と主な出来事

北条氏政は生年が天文7年(1538)で、没年が天正18年(1590)です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。

飢饉と疫病の中で始まった当主の仕事

氏政は天文7年(1538)に、北条氏康の息子として生まれました。天文23年(1554)、相甲駿三国同盟の成立後、武田晴信(信玄)の娘(黄梅院)を正室に迎えました。

武田信玄
武田信玄

永禄2年(1559)12月には、氏康から家督を継承、北条家第4代当主に就任しました。しかし、その直後に関東は飢饉と疫病の流行に見舞われます。翌年、氏政は徳政を実施して対処しました。さらに代物法度を改定し、精銭七十文・地悪銭三十文という法定混合比率を確立し、商取引にも適用させています。

乱世の当主として、まず「領内を回す」ことから始めた姿が見えてきます。

上杉謙信の来襲と武蔵の平定

永禄4年(1561)、父氏康とともに長尾景虎(のちの上杉謙信)の小田原攻城を退けました。これを契機に、領国内で禁止していた一向宗(浄土真宗)の布教を解除するなど、宗教政策の変更も行っています。

上杉謙信
上杉謙信

永禄7年(1564)正月、里見義弘(さとみ・よしひろ)と下総の国府台(こうのだい)で戦い勝利(第二次国府台の戦)。同年、太田氏資(おおた・うじすけ)の内応を得て岩槻城(現在の埼玉県)を攻略し、武蔵をほぼ平定しました。氏政の時代、北条氏は関東で勢力を広げていったのです。

駿河を巡る武田との攻防

氏政の外交は、武田・上杉との対立と講和の繰り返しでもありました。永禄10年(1567)から永禄11年(1568)にかけて、今川氏真(いまがわ・うじざね)とともに甲斐への塩の輸送停止という経済封鎖を行いますが、永禄11年(1568)末に信玄が駿河へ侵攻すると、氏政は駿河で武田軍と戦い、遠江掛川へ援軍も派遣しました。

その後、宿敵上杉氏との講和が進み、永禄12年(1569)に相越同盟が成立。これにより、氏政の正室(信玄の娘)は離縁され、甲斐へと送り帰されました。ただし、翌元亀2年(1571)に父・氏康が死去すると、氏政は晴信との講和を進め、同年12月に相甲同盟が成立して相越同盟は破綻します。

戦国の同盟は「友情」ではなく「必要」で結ばれ、情勢が変われば反転する… 氏政の歩みは、そうした戦国時代の現実をそのまま映しているかのようです。

家督を譲っても「御隠居様」として実権を握る

天正8年(1580)8月、武田勝頼と黄瀬川で対峙しますが、陣中で家督を子の氏直に譲り、氏政は当主の座から引退しました。

とはいえ、隠居後も「御隠居様」などと敬称され、印判を用いて氏直の政務を助け、後見として実権を握って諸事を決したとされます。

秀吉の上洛命令に応じず、小田原合戦

秀吉による天下統一は進み、残すは関東・東北のみとなります。

氏政は、成り上がった秀吉に対して、否定的な考えを持ち続けました。天正16年(1588)に秀吉が聚楽第に後陽成(ごようぜい)天皇を招き、全国の諸大名に列席を命じた時にも、氏政は欠席。秀吉がたびたび上洛するよう催促するも、北条氏は無視し続けます。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

家康(娘が氏直の嫁)が仲介して、何とか北条氏の上洛が実現。まず氏政の弟・氏規(うじのり)が上洛しました。後に、氏政上洛の誓約書が秀吉に渡され、緊張関係は緩和されます。

ところが、北条氏の名胡桃(なぐるみ)城奪取を契機に、北条と秀吉の関係は悪化。秀吉が既に出していた大名間の私戦を禁じる「惣無事令(そうぶじれい)」に反すると見なされ、対立は決定的なものとなったのです。

氏政は城の修復など軍備を強化し、小田原城での籠城策で秀吉と戦うことを決めます。この策は上杉謙信、武田信玄に対して成功したものでした。

しかし、秀吉の軍事力は氏政の想像を超えるもので、22万ともいわれる大軍で小田原城を三方面から包囲されてしまいます。北条の城は次々と陥落し、兵士は戦意を喪失。秀吉に内通しようとする家臣まで現れ、ついに天正18年(1590)の7月5日、小田原城は開城し、北条氏は秀吉に降伏したのでした。

戦後、氏政は敗戦の責任を問われ、弟・氏照(うじてる)とともに、小田原城下の屋敷で切腹。首は京都に送られ、一条戻橋にさらされました。氏直は家康の娘婿であったことから助命され、高野山に追放されることに。

関東の覇者として積み上げてきたものが、全国統一の本流の前で、崩れていったのです。

現在の小田原城

まとめ

北条氏政は、飢饉と疫病に徳政で向き合い、貨幣の混合比率を定めて領国経済を整え、関東で勢力を押し広げた人物です。しかし、情勢は加速度的に「全国統一」へと収束していきます。

上洛命令に応じないという選択は、氏政にとって「北条の自立」を守る決断だった一方で、秀吉の時代では決定的な孤立を意味しました。

しかし、氏政は氏政の論理で最後まで戦い抜いたといえるのかもしれません。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)

 

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