写真はイメージです。

文/鈴木拓也

徳川家康は江戸開府とともに、全国的な道路網の整備に着手。江戸後期には、本州の最北端から最西端まで街道が張り巡らされた。

この街道整備は、参勤交代を含めた幕府による全国統治がねらいであったが、庶民が遠方まで旅できるインフラにもなった。お伊勢参りに代表されるように、神社仏閣の参拝を名目に物見遊山をすることは、人々の大きな憧れであった。

その頃の旅といえば、男がするものというイメージがあるが、実は女性も盛んに旅に出た。藩主の妻から町人まで身分もさまざまで、たいがいは男性を交えてのグループ旅行であった。年齢層は40代半ばから50代が多いのは、子育てや主婦業が一段落して第二の人生を謳歌していることの表れだろう。

そうした江戸時代の女性の旅の実情をまとめたのが、書籍『江戸の女子旅―旅はみじかし歩けよ乙女―』(谷釜尋徳/晃洋書房)。読んでみると、当時の女性のライフスタイルの一端が垣間見えて面白い。その一部を紹介してみよう。

5か月に及ぶ巡礼の旅をした女性も

江戸時代の女性たちは、近場の小旅行もしただろうが、そうしたものはあまり記録に残さない。日記の形で史料として残るのは、長距離の参詣が主になり、本書で取り上げるのも、そうした旅行がメインとなる。

例えば、由利郡本荘の町人・今野於以登(おいと)は、東北から四国に至る151日に及ぶ大旅行をした。目的は伊勢参宮だが、行ってとんぼ返りする直線ルートではなく、日本海側を下って、京都、大坂、(四国の)丸亀などに立ち寄り、帰途は太平洋側ルートに変えて、伊勢、浜松、鎌倉、日光などを訪れる、いわば巡礼の旅であった。

於以登の家業など不明だが、この規模の旅行だと費用も相当かかるはずで、著者の谷釜尋徳教授(東洋大学法学部)は、「経済力のある中年女性」だったとみている。

もう少し庶民的でリーズナブルな旅を楽しんだのが、国分ふさだ。安達郡白岩村(現在の福島県本宮市)の神主の妻であるふさは、1か月かけて関東へと旅をした。同行したのは女性7名、男性1名で、この男性は荷物持ちとして雇われていた。彼女の旅の目的も寺社参詣で、鹿島神宮、成田山新勝寺、川崎大師、日光を訪れ、道すがら江戸観光など楽しんだ。

過酷な旅程を1日30km歩く

現代人は、交通機関のおかげで伊勢神宮でも日光東照宮でも割と気軽に行けるが、もちろん江戸時代はそうではなかった。

乗り心地に問題がありお金もかかる駕籠や馬を除けば、徒歩での旅行が基本。於以登は約3000km、ふさは約640kmの旅路であったが、てくてく歩いていたのである。ならすと1日あたり30kmほど。車社会に慣れてしまったわれわれには、想像し難い健脚ぶりだ。しかも旅装は、くるぶしまで裾がある道中着に草履なのだから恐れ入る。

言い換えれば、これぐらいの元気があることが長旅を楽しむ要件でもあった。

さらには、難所も乗り越える覚悟が必要であった。五街道が整備されたといえ、舗装もされていなければ街灯もない。これが山の中になると、きつい坂道を上り下りせねばならず、樹木が生い茂って昼なお暗い。

谷釜教授は、松尾芭蕉の足跡をたどる旅に出た、京都在住の俳諧師・有井諸九尼(しょきゅうに)の例を挙げる。彼女は、遠州(現在の静岡県西部)の秋葉山中を歩いているとき、蛭(ひる)が木の枝から大量に落ちてくる目に遭った。

あまりの気持ち悪さに難渋しているうちに雨も降ってきて、一歩も前に進めなくなりました。しかし、そこは山の中で泊まれる宿もありません。やむを得ず、案内人の袖につかまりながら何とか歩き続けました。諸九尼が「雨もなみだもふりそひて行」と書いたように、雨と涙が入り混じって、ずぶ濡れの状態で命からがら歩く壮絶な道中でした。(本書77pより)

ここを切り抜け箱根山まで辿り着いた諸九尼だったが、実はここが一番の難所であった。あまりに急斜面な下り坂は踏みとどまるのも難しく、三島宿までの約10kmの石畳道は歩きにくいことこの上なかった。そして、最後の目的地である松島まであと少しのところで、体調を崩し6週間も現地療養する羽目になる。諸九尼はこのとき57歳で、当時の基準ではシニアの年代。身体をこわすのも無理もなかったろう。

関所破りは斡旋業者の力添えで堂々と

地形的な難所とは別に、女性の旅には関所というハードルがあった。幕府は、治安維持のため主要街道の基点に53か所の関所を置いていた。

関所を通行するには、関所手形が必要であったが、女性はさらに長時間にわたる厳重な本人確認が行われた。その確認を行うのが、人見女(ひとみおんな)や改め婆(あらためばばあ)と呼ばれた老女。旅行者の髪をほどいて、全身を触り、次々と質問をしてきて、「いかにする事にかと恐ろし」と書かれるほど。

それもあって、関所を回避して旅を続ける方法が編み出された。幕末の志士・清河八郎が若き頃、母とともに伊勢参宮をした際の記録が、一例として取り上げられている。母と息子の伊勢参宮は、手形なしの「抜け参り」であった。

関川関所(現在の新潟県妙高市)は、女性の関所破りに厳しいと噂の関所であった。ここを抜けるために、母子は「宿屋の案内で早朝に関所の下の忍び道を通り、関所門前の柵木をくぐり抜け」た―なんと、堂々と関所のそばを通行している。この点について、谷釜教授は次のように説明する。

亀代たちの関所破りが、宿泊先の従業員の手引きで行われたのは興味深い事実です。関所近隣の宿屋は、女性の密かな通行を斡旋するビジネスを展開していた実態が透けて見えてきます。もちろん、関所の番人が柵木を抜ける旅人の姿に気が付かないはずはありません。ガイド役の宿屋は、関所側と結託して分け前を渡すことで、関所破りの案内ビジネスを巧みに成立させていたのでしょう。(本書73pより)

そのあと二人は、気賀関所を破っているが、このときは夜中に浜名湖を船で渡って迂回した。この場合も、斡旋業者が手助けしている。女子旅が盛んな江戸末期ともなると、関所破りは立派な裏ビジネスとなっていたのだろう。ある意味、旅行者、宿屋、関所の三方良し的な雰囲気が感じられる。

『東海道中膝栗毛』のイメージからか、江戸時代の旅は男がするものと思っていた。しかし、本書を読むと、そうではないことがわかる。その意外性もあって楽しく読める1冊に仕上がっている。江戸時代の庶民の歴史に興味のある方に一読をすすめたい。

【今日の教養を高める1冊】
『江戸の女子旅―旅はみじかし歩けよ乙女―』

谷釜尋徳著
晃洋書房

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文/鈴木拓也 老舗翻訳会社役員を退任後、フリーライターとなる。趣味は神社仏閣・秘境めぐりで、撮った映像をYouTubeに掲載している。

 

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