築いた砦を活用して武田氏の兵糧弾薬の搬入を遮断し、天正8年(1580)6月に高天神城を攻めて、各所を放火しました。7月には臨戦態勢に入ります。
しかし、難攻不落と名高い高天神城を攻略するのは、容易ではありませんでした。しばらくの間、小競り合いが続いた後、同年3月22日に決戦、ついに家康は高天神城を落城させることに成功したのです。
その後
家康が複数の砦を築き、兵糧攻めを行ったことで、城主を含む籠城衆は窮地に陥ります。勝頼に援軍を依頼しても音沙汰がなく、最終的にほとんどの兵士が全滅。「高天神城に援軍を送らず、見殺しにした」として、勝頼は武将としての評価を著しく落とすことに。
一方、天正10年(1582)、信濃国(現在の長野県)の木曽氏が、武田氏から信長方に寝返ったことで、信長は本格的に武田討伐を開始します。家康も援軍を要請され、武田氏の重臣だった穴山梅雪(信君)を味方につけて、甲斐国に出陣しました。
信長は武田氏の諸城を次々と攻略し、勝頼を自害へと追い込みます。勝頼が命を絶ったことで、家康たちを散々苦しめてきた武田氏は、ついに滅亡することとなったのです。
まとめ
武田氏滅亡の決定打となった「高天神城攻め」。戦後の論功行賞で、家康は信長から駿河国を与えられ、三河・遠江・駿河の三か国を領する大名へと成長しました。戦国最強と名高い武田氏の討伐に成功した家康でしたが、その後も様々な問題が彼を悩ませることとなるのです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
⽂/とよだまほ(京都メディアライン)
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引用・参考図書・サイト/
『日本の城がわかる事典』(講談社)
掛川市ホームページ