この事件の内容と結果
五徳姫が12か条にわたって記したとされる訴状は現存していないため、完全な形では伝わっていません。訴状の内容としては、「築山殿が、男児を出産できなかった自分のことを役立たずと罵った」「信康が、自分の侍女に対して乱暴に振る舞った」「武田勝頼が、信康を味方に引き入れようとしている」など、二人に対する不満が書かれていたとされています。
娘からの訴状に目を通した信長は、信康と築山殿が武田氏と内通しているのではないかと疑念を抱き、家康に二人の処分を命じたとされます。このとき、家康の家臣である酒井忠次と大久保忠世は信長を説得するため安土城を訪れますが、説得することは出来ず信康切腹の処分に至ったとか。
そして、天正7年(1579)8月29日、呼び出しを受けて岡崎城から浜松城へと向かう道中、家康の命を受けた家臣・野中重政(しげまさ)によって、築山殿は暗殺されます。築山殿の死から間もない9月15日、家康の命で信康も切腹し、果てました。
築山殿は38歳、信康は20歳という若さでした。
その後
二人の死後、未亡人となった五徳姫は、出家も再婚もせず、京都に隠棲したと伝えられています。事件の発端は、五徳姫が信長に訴状を送り付けたことにあるというのが通説です。しかし、現在でも複数の意見に分かれており、一説には浜松派と岡崎派の対立を発端として、岡崎派が信康を担ぎ上げ、家康との対立に発展したというものがあります。また、信康と築山殿が処刑された最大の理由として、武田氏と内通している疑いがあったからということも挙げられています。いずれにしても、明確な真相はわかっていません。
家康は、二人の死を大変悲しんだそうです。その反面、家臣団を統制するためには、非情な決断を下すしかなかったのかもしれません。
まとめ
信康と築山殿が、悲劇的な最期を迎えることとなった「信康・築山殿事件」。信康は、家臣たちからの人望が厚かったとされ、介錯役を命じられた服部半蔵は、号泣して役目を果たせなかったという逸話が残されています。
二人が非業の死を遂げたことは、家康のみならず、家臣たちの心にも暗い影を落とすのでした。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
⽂/とよだまほ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)