この戦いの内容と結果
天正3年(1575)2月、家康は武田の旧臣・奥平信昌をその城主とし、武田からの攻撃に備えます。
武田軍は、4月には長篠城を包囲し、5月には長篠城への攻撃を開始しました。しかし、長篠城がなかなか陥落しなかったので、武田軍は長篠城付近に布陣し、長期戦に入ります。
武田の侵攻を知った家康は、信長に援軍を要請するも、信長は畿内の一向宗との戦闘に注力していて、支援するだけの余裕はありませんでした。しかし、家康は3度も信長に援軍を要請し、ついに信長はこれに応じて1万の兵を従えて出陣します。
一方の長篠城ですが、食糧も不足し、家康と信長の援軍が来るまでに陥落寸前の状況でした。そんな時、信昌は家康への使者として鳥居強右衛門を送り出します。強右衛門は無事、武田軍の包囲網を突破して、家康に現状を報告。援軍が来ているのも確認します。
そして、長篠城に戻る際に、強右衛門は武田軍に拘束されてしまいます。「援軍は来ない」ということを伝えるように命じられ、長篠城の前まで連行された強右衛門は「数日のうちに援軍は来る!」と叫び、味方を鼓舞しました。強右衛門は処刑されてしまいますが、再び戦意を高めた長篠城の兵士たちは最後まで持ちこたえることができたのです。
5月18日には、家康・信長連合軍が設楽原に布陣。21日には、決戦が始まります。
まず、家康は部下の酒井忠次(さかい・ただつぐ)に命じて、鳶ノ巣山(とびのすやま)を攻略します。この砦は、武田軍にとって食糧保管庫であると同時にのろしによる通信施設でもあったので、急所とも言うべきところでした。
この急襲で鳶ノ巣山は陥落し、武田軍は補給路を絶たれる形になります。こうして、武田軍は設楽原での決戦に臨み、武田軍の山県昌景が攻撃を開始しました。
しかし、馬防柵と鉄砲によって、武田軍の兵士は次々と倒れていきます。赤備えを率いた昌景も戦死。この戦いで、武田軍は重要な家臣を多く失うことになったのでした。一方の家康・信長連合軍は大きな損害を出すことなく、勝利します。
長篠・設楽原の戦いの後
長篠・設楽原の戦いでの大敗で、有能な家臣を失った武田氏は急速に弱体化していきます。当主の武田勝頼も求心力を失い、やがて部下からも離反者が出るように。孤立した勝頼は、天正10年(1582)に妻子とともに自害し、武田氏は滅亡します。
一方で、長篠城を最後まで死守した奥平信昌は高く評価され、信長から「信」の字を与えられるほどでした。また、家康からはその娘の亀姫(かめひめ)を継室としてもらいうけることに。
他にも長篠・設楽原の戦いでは、鉄砲の威力が確認されることになり、従来の騎馬戦から鉄砲戦へと戦術が変化したのでした。
まとめ
長篠・設楽原の戦いで、家康は武田軍に大勝し、負け戦であった三方ヶ原の戦いでの雪辱を果たすことができました。さらには、この戦いが武田氏滅亡の要因となり、家康にとっては天下統一に向けて前進する極めて意義のある戦いであったと言えるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)