命がけの叫びで味方を鼓舞
岡崎からの帰路、強右衛門は雁峯山で再度狼煙を上げて、長篠城に入ろうとしたところで武田の兵士に拘束されてしまいます。命と家臣としての地位を保証する代わりに、武田軍から「援軍は来ない」と伝えるように命じられ、長篠城の前まで連行されました。
ところが、強右衛門は「援軍はまもなく到着する」と叫びます。これによって、長篠城内にいる兵士たちの戦意は一気に高まり、城を最後まで守り抜くことができました。これに勝頼は激怒、叫び終えた強右衛門は磔刑(たっけい)に処されることに……。
そして、援軍の徳川・織田連合軍が到着すると、長篠の戦いが始まりました。この戦いで、家康は大勝利。強敵であった武田氏が滅亡するきっかけとなりました。
鳥居強右衛門の死後
強右衛門の功績は高く評価されました。その子孫は上級武士になり、大名・松平(下総守)家の家臣として仕えるようになります。
また、強右衛門の最期に感銘を受けた武田の武士・落合左平次(おちあい・さへいじ)は強右衛門の磔の姿を絵にして、自分の指物としました。磔にされながらも、鋭く目を見開き、全身が真っ赤の強右衛門の姿は強烈なインパクトがあります。
まとめ
強右衛門は「我が君の 命にかはる 玉の緒を なにかいとひけん 武士(もののふ)の道」という辞世の句を残しています。強右衛門の最後の強い心が伝わってくるようです。
長篠の戦いにおいて、強右衛門の貢献は極めて大きいものでした。もし、強右衛門の働きがなければ、長篠城は陥落し、長篠の戦いで家康が武田軍に敗北していたかもしれません。強右衛門の壮絶な最期といい、その後の展開といい、強右衛門は日本史において最も有名な足軽と言えるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)