長篠での敗北と武田氏の滅亡
勝頼は、父・信玄の遺業であった西上 (さいじょう) 作戦を続行し、遠江 (とおとうみ) の高天神 (たかてんじん) 城を陥落させます。高天神城は信玄も攻略できなかった城であり、この時の勝頼には勢いがありました。
また、勝頼の時代には、商人・職人の城下町への集住策が継続されるとともに、領国内の度量衡が統一されて、生産・流通の統制が強化されています。
しかし、天正3年(1575)の 長篠の戦いで、徳川家康・織田信長連合軍に大敗。「赤備え」で有名な山県昌景(やまがた・まさかげ)ら重臣の多くを失います。それ以降の状況は、悪化の一途をたどることに……。
まず、上杉景勝(かげかつ)と同盟を結んだことで、北条氏との関係が悪化。北条軍の攻撃を受けるようになります。同時期には、遠江で家康の攻勢が続き、勝頼は駿河で狭撃される形に。このことで領内の軍役も重くなり、領国の疲弊と家臣団の離反を招きます。
やがて、家臣の中には穴山信君 (あなやま・のぶただ) のように、勝頼を見限って家康に内通する者も出てきました。
天正9年(1581)にはかつて勝頼が攻め落とした高天神城が攻略され、遠江は完全に家康の支配下に。勝頼は韮崎に新府城(しんぷじょう)を築いて、甲府から撤退します。
天正10年(1582)には、家康・信長の連合軍による甲州征伐によって、拠点としたばかりの新府城も持ち堪えられず、街に火をかけて都留(つる)郡へと向かいます。撤退時、一行は勝頼夫人ほか一門・親類ら200余人と侍衆600余人。その中で馬乗りは20騎にすぎなかったといわれています。
しかし、都留郡領主の小山田信茂(おやまだ・のぶしげ)の離反によって、織田軍との挾撃にあいます。その後、勝頼は一族とともに天目山麓の山梨郡田野(東山梨郡大和村)で自害しました。これによって武田氏は滅亡したのです。
まとめ
勝頼は、偉大なる父・信玄とよく比較され、長篠の戦いで大敗し、武田氏の滅亡を招いた人物として、ネガティブな印象を持たれがちです。しかしながら、信玄も攻略できなかった高天神城を攻め落とすなど、優れた一面もありました。軍事・外交・内政など多様な観点から、勝頼の評価を見直す必要があるのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)