戦国最強と言われた「赤備え」を率いる
昌景が率いた「赤備え」の騎馬軍団は、武田軍の主力部隊として大きな戦果をあげました。昌景は短期間での城の攻略を得意とし、敵を恐れぬ猛将だったそうです。
元亀3年(1572)の三方ヶ原(みかたがはら)の戦いでは、徳川軍に正面突破をしかけ、「さても山県という者、恐ろしき武将ぞ」と家康に言わしめたとか。この時、家康は命からがら浜松城へと逃げ帰りました。
永禄4年(1561)の第4次川中島合戦でも、その勇姿が江戸時代後期に書かれた『甲越信戦録』という書物に記録されています。
書物によると、昌景は四尺三寸(約160センチ)の大太刀を振り回し、戦ったとか。さらに、信玄の嫡男・義信が敵に取り囲まれた時は、相対していた上杉方の武士に「主君のため、この勝負、待ってくれぬか」と頼みこみ、義信を救ったともいわれています。
長篠で散る
昌景は、信玄に信用・重用され、さまざまな戦果をあげたものの、信玄の死によって状況が変わり始めます。信玄の息子で、武田家の跡取りになった武田勝頼(かつより)には信用されず、疎んじられることに。
天正3年(1575)、長篠での開戦の際、開戦反対の進言を勝頼に冷笑されると「今日こそ討死」と告げたとされています。その後、織田軍との戦いの中で、鉄砲の玉を受けても落馬せず、采配を口にくわえたまま戦死したともいわれています。
長篠の戦いで、武田氏は敗北。その後、滅亡の道へと進んでいくことになるのです……。
まとめ
昌景は武田軍の最強騎馬軍団「赤備え」を率いて、さまざまな活躍を見せました。しかし、最後は長篠の戦いで戦死します。武田の騎馬軍団の時代が終わるとともに、昌景の人生もまた終焉を迎えたのでした。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)