明治時代の浮世絵師、水野年方(みずの・としかた)の画業を振り返る、初の展覧会が太田記念美術館で開かれています。
浮世絵師といえば、とにもかくにも、江戸時代を生きた歌麿、北斎、広重などが有名で、明治時代の浮世絵師と聞いて、思い浮かぶ者はあまりいないかもしれません。浮世絵師達は、明治時代にどのような道をたどったのでしょうか?
水野年方は、そんな疑問について考えるヒントを与えてくれる存在です。
年方は1866(慶応2)年に生まれ、歌川国芳門下の月岡芳年のもとで学びました。二代目芳年を襲名するのではと目された実力の持ち主で、その弟子には日本画家の鏑木清方がいます。意外なことに、美人画の名手、清方は、歌川派の流れに属しているのです。
明治時代に入ってから浮世絵版画を巡る状況はめまぐるしく変化しました。西洋由来の銅版や石版など印刷技術が台頭し、役者絵や美人画は写真のブロマイドに、その座を奪われ、絵草紙屋で売られる昔ながらの錦絵の人気は低迷しつつありました。その一方で、新聞や雑誌など新しいメディアが誕生し、絵師たちには新たな活躍の場もできます。
年方は錦絵も手がけていましたが、文芸雑誌や小説の単行本の口絵でも人気を博しました。上の図版は、雑誌『文芸倶楽部』に連載された、泉鏡花の小説「外科室」の口絵です。このような木版画が雑誌に挟み込まれていたとは、現代人の感覚からすると贅沢に思えますが、当時のカラー印刷はまだまだ木版が主流でした。
年方の挿絵は、泉鏡花の他、尾崎紅葉や幸田露伴など、教科書でもお馴染みの錚々たる小説家の作品を彩りました。
三越の前身、三井呉服店の配りものとして出版されたと考えられているのが『三井好都のにしき』です。女性達がまとう流行の服や小物には、三井呉服店のPR雑誌『時好』に掲載されたものと類似したものがあります。版画が商品広告としての役割を担っていたことがわかります。
そして、年方は明治30年代から、肉筆画(版画ではなく、手で描いた絵)を展覧会に出品し始めます。どのような心境の変化があったのでしょうか。太田記念美術館主席学芸員の日野原健司さんに伺いました。
「錦絵や挿絵など庶民のための絵を描いていた年方は、大衆的な人気を誇りました。しかし、一般的に浮世絵師には、狩野派や円山派などよりも絵師としてのステータスが下という見方があり、年方は葛藤を抱えていたのでしょう。東京美術学校(東京藝術大学の前身)を卒業した日本画家と肩を並べ、展覧会に参加することで、画家としてより認められたいと考えたのかもしれません」
年方の画力は、アカデミックな展覧会でも認められました。作品が宮内庁御用品に選ばれ、受賞を重ねて日本絵画協会の審査員にも推挙されています。年方は、まさに浮世絵と日本画の世界を結ぶ架け橋のような存在です。明治という激動の時代で、どのように進むべき方向を探っていたのか、という視点で展覧会をご覧になると、新たな発見があるかもしれません。
【生誕150年記念 水野年方~芳年の後継者】
■会期/2016年11月4日(金)~12月11日(日)
■会場/太田記念美術館
■住所/東京都渋谷区神宮前1-10-10
■電話番号/03・5777・8600(ハローダイヤル)
■料金/一般700円 大高生500円 中学生以下無料
■開館時間/10時30分から17時30分まで(入館は17時まで)
■休館日/毎週月曜日(祝日の場合は開館、翌日休館)
■アクセス/JR原宿駅、地下鉄千代田線明治神宮前駅より徒歩約5分
太田記念美術館のサイトはこちら
取材・文/藤田麻希
美術ライター。明治学院大学大学院芸術学専攻修了。『美術手帖』