甲相駿三国同盟の成立から終焉までの流れ

次に、甲相駿三国同盟の成立とその終焉までの流れを整理しましょう。

北条氏と今川氏の関係悪化

そもそも相模の北条氏と駿河の今川氏は、長い間友好関係にありました。両者は姻戚関係にあり、同盟関係にあったのです。北条氏初代の北条早雲(そううん)の姉が今川氏親(うじちか。義元の父)の母で、早雲も伊豆を責める際は氏親の力を借りました。一方で、氏親も駿河から遠江に勢力を拡大するに際し、早雲の力を借りていたのです。

ところが、天文6年(1537)に、義元が甲斐の信玄の姉を妻として迎えた(武田氏と手を組んだ)ことで、両者の関係は悪化します。それまで今川氏は北条氏と一緒になって、武田氏に敵対していたからです。これに反発した北条氏は駿河に侵入、一部の地域を占領する事態となりました。 その後、武田氏・北条氏・今川氏の間で戦闘が相次ぎ、戦況は膠着状態になります。

同盟の成立

膠着状態だった状況に変化が現れます。天文23年(1554)に、臨済寺住職でありながら、義元の軍師でもある太原崇孚(たいげん・すうふ)が仲介し、甲斐の武田氏・相模の北条氏・駿河の今川氏の三者に対して、不可侵を誓わせました。これが甲相駿三国同盟の成立です。

なお、甲相駿三国同盟は「善得寺の会盟(ぜんとくじのかいめい)」で成立したとも言い伝えられています。

同盟の成立に伴い、当主である信玄、氏康、義元の娘がお互いの嫡子に嫁ぐことになります。義元の娘が信玄の子・武田義信(よしのぶ)に、信玄の娘が氏康の子・北条氏政(うじまさ)に、氏康の娘が義元の子・今川氏真(うじざね)に嫁ぎました。

今川氏の弱体化

永禄3年(1560)、義元が桶狭間の戦いで戦死したのを契機に、今川氏は弱体化しはじめます。

義元の敗死後は、子の氏真が家督を継承しました。しかし、氏真は蹴鞠(けまり)を愛し、和歌をたしなむという文化人だったようで、軍事については疎かったようです。

これを知った家康と信玄は、今川領である遠江と駿河を双方で分割し分け合うという密約を結びました。この時点で、信玄は甲相駿三国同盟を破棄するつもりだったのかもしれません。

信玄の駿河進撃による同盟の終焉

そしてついに、永禄11年(1568)、信玄は駿河への侵攻を開始しました。これをもって甲相駿三国同盟は終焉したといえるでしょう。今川軍も応戦するもののやがて総崩れとなり、氏真は駿河を離れ、掛川城(かけがわじょう)に籠城します。掛川城に籠城した氏真を攻めたのが、信玄の駿河進撃と同時に遠江へ侵攻した家康です。

しかし、掛川城の防御が堅固であったため、半年近く経っても家康は城を落とすことができませんでした。さらには、武田側が密約を破り、遠江にまで侵攻する気配を見せたので、家康は氏真に有利な条件を提示し、講和を結びました。氏真は小田原の北条氏を頼って落ち延び、こうして戦国大名としての今川氏は事実上滅亡します。

これ以降、徳川方と武田方の対立が激化していくことになるのです。

まとめ

戦国時代においては信義というものが存在せず、裏切りが当たり前でした。「昨日の友は今日の敵」ともいうべき状況だったのです。そのような時代背景の中で、甲相駿三国同盟もまた、あっさりと雲散霧消したのでした。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/三鷹れい(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)

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