文/印南敦史
我が家の近所に、古くから営業を続けている中古レコード店がある。オールジャンルが揃ってはいるもののメインはクラシックであり、常連には音楽業界の方も多いようだ。
私もクラシックのレコードを細々と集めているので、月に何度かのペースで顔を出している。とはいえターゲットは高額盤ではなく、チェックするのはもっぱら廉価盤のコーナーである。
だが、廉価盤といえども、そのバックグラウンドにはお店の方のしっかりとした知識がある。そのため価格は安くても満足できるものばかりだし、私の場合は古い国内盤の裏ジャケに印刷されているライナーノーツ(解説)を読むのも好きなので、価格以上の満足感を得ることができるのだ。
日ごろからそういうお店に通って細やかな楽しみを享受しているだけに、村上春樹さんが『更に、古くて素敵なクラシック・レコードたち』(村上春樹 著、文藝春秋)で書かれていることにも強く共感できる。知識の量は村上さんの足元にも及ばないが、それでも“クラシックのレコード好き”としての気持ちはとてもよくわかるのだ。
以前ご紹介したことのある『古くて素敵なクラシック・レコードたち(https://serai.jp/hobby/1036211)』の続編である。前著は「こんな趣味的な本が喜ばれるのだろうか」と首をひねりながら書き進めたというが、なかなか好評だったようである。しかし、それもまた充分に理解できることだ。
読み進めているだけで、いや、ぱらぱらとページをめくって見たことのないレコードジャケットを眺めているだけでも楽しめるからだ。その感覚は、古いレコードのライナーノーツを読んでいるときのそれにも似ている。
これは「この曲はこの演奏を聴け!」というようなガイドブックでもないし、啓蒙的な意図をもって書かれた本でもない。取り上げるのはほとんどが古いレコードばかりだから、まず実用にも適さないかもしれない。じゃあいったい何のための本なのかと問われれば、「うちにはこういうLPレコードがあって、僕はこのようにそれらの音楽を聴いております」という個人的な報告書(レポート)のようなものと考えていただければ……とでも言うしかない。(本書「二種類の好き嫌い」より)
おっしゃるとおりで、紹介されているレコードのなかに私が所有しているものは少ないし、むしろ初めて見たジャケットのほうが多かったりもする。当然ながらサブスクリプション・サービスでも見つけられないものばかりだから、同じ音源を聴くことはほとんどできないかもしれない。
だが、それでも本書は充分に楽しめる。まず特筆すべきは、(前著をご紹介したときにも書いたとおり)読んでいるだけで、村上さんのご自宅でレコードを聴かせていただいているような気持ちになれること。
そしてもうひとつは、「同じ盤を聴けないなら、別の演奏家のレコードで聴きなおしてみよう」と思えるようにもなること。もちろん同じ盤が聞ければベストなのだけれど、そういう間接的な手段によって好奇心を広げていくことも、決して無駄ではないはずだと思うのだ。
うちにあるレコードの中にはもちろん、「この演奏家のこの曲の演奏が聴きたい」とはっきりした目的意識を持って買い求めたものもある。またバーゲン箱を漁っていて「これは安くて、なんとなく面白そうだから」と適当に買ってきたものもある。ジャケット・デザインに惚れていわゆる「ジャケ買い」したものも少なからずある。「このレコードは一生手放したくない」と思うものもあれば、「なんでこんなものがうちにあるんだろう」と首をひねりたくなるものも中にはある。でもまあ僕が思うに、コレクションというのは本来そういう雑多な性格のものであって、一枚一枚すべてが「不朽の名盤」みたいだと、抱えている方もけっこう神経が疲れてしまう(はずだ)。(本書「二種類の好き嫌い」より)
まったくもって同感である。
ところで村上さんは、音楽の好き嫌いには2種類あると考えているそうだ。ひとつは流動的、即感的な好き嫌いで、もうひとつは体癖(感受性の癖というべきか)に基づく“ぶれ”のない好き嫌い。もちろん両者を見分けるのは簡単ではないだろう。しかし、時間をかけてていねいに音楽を聴いていると、だんだん自分のなかでのその違いが見えてくるのだという。
前者に関してはそのときどきの気分で「好き嫌い」の評価が変化したり、入れ替わったりすることもあるが、後者の評価はだいたい安定している。どちらにしてもそれらはあくまで僕個人の「感覚」であり、僕個人の「体癖」に過ぎない。どちらもかなり身勝手なもので、一般性みたいなものを見いだすのがむずかしい場合も少なくない。だから読者のみなさんにそういうものを押しつけるつもりは毛頭ない。(本書「二種類の好き嫌い」より)
ここにこそ、本書の核心があるように思える。そもそも音楽の聴き方は、身勝手で好き嫌いのあるもの(であるべき)だ。だからこそ各人が、「僕はこれが好きなんだよね」というように、あくまで個人的な価値をその作品に見いだすことができるのだ。
そして、そこに“正解”はないだろう。村上さんが好きだという作品が必ずしも自分の好みに合うとは限らないし、逆のケースがあっても不思議はない。それは当然であり、音楽を、とくに古いレコードを通してそれを聴くにあたって大切なことでもある。
本書を読んでいると、そんな“忘れてしまいがちではあるけれど実は大切なこと”を改めて実感できるのだ。
文/印南敦史 作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。音楽雑誌の編集長を経て独立。複数のウェブ媒体で書評欄を担当。著書に『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)、『プロ書評家が教える 伝わる文章を書く技術』(KADOKAWA)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)、『書評の仕事』(ワニブックスPLUS新書)などがある。新刊は『「書くのが苦手」な人のための文章術』( PHP研究所)。2020年6月、「日本一ネット」から「書評執筆数日本一」と認定される。