社会に出て最初に覚えたことは、仕事のやり方と「長い物には巻かれろ」という処世術。あっちこっちで頭をぶつけて、次第に角も取れて丸くなる。気がつけば、いつしか“世渡り上手”と言われるようになっていました。

世渡り上手とは、褒められているのかと思いきや、決してそうでないと知るのは、かなり後年になってからだったりします。本音を隠し、相手に合わせ、適当に相槌を打ち、愛想笑いをする、これが一端の社会人になったことの証なのでしょうか?

最初は無理してやっていたことが、身体に馴染んでいることに気付き、「社会人になるとは、人間としてずるくなるということなのか」と青臭いことで悩んだこともありました。

組織の中で出世する人は、必ずしも「有能な人」とは限らないことも見えてきます。少なからず、処世術と器用な立ち回りは必要な能力のようです。

組織を離れれば、嫌なことは嫌と言い、したくないことはやらない、そんな生活ができるはずと思っていましたが……、染みついた処世術を脱ぎ捨て、若い頃のように尖った人間にはもう戻れないようです。

せめて、黒田官兵衛の真逆のような生き方、「人に媚びて、富貴を欲する」ような生き方だけはしたくないと思うのですが、いかがでしょうか?

黒田官兵衛の名言
我、人の媚びず
富貴を望まず

黒田官兵衛の人生

黒田孝高(よしたか)、通称・黒田官兵衛は、戦国の世に生まれ、生涯で50回以上の合戦で一度も負けたことがなかったと言われています。豊臣秀吉の下で「天才軍師」として活躍し、秀吉の天下統一を支えたことは、皆様ご存知の通りでしょう。彼の人生を簡単に振り返ってみます。

播磨国姫路に生まれ、小寺氏の家臣として姫路城を預かる身でしたが、持ち前の先見性から、織田信長が台頭すると信長に通じます。天正5年(1577)には、中国攻略のために播磨に入った豊臣秀吉を姫路城に迎え入れました。

その翌年、信長の配下にいた荒木村重が謀反を起こします。官兵衛は、村重の有岡城に赴き、説得をしようと試みましたが、捕えられ城中に抑留されることに……。官兵衛がそこから救出されたのは、その一年後のことでした。

有岡城石垣

本能寺の変で信長が討たれると、官兵衛は「速やかに京都へ向かい、明智光秀を討ち取るべきだ」と進言。このことで秀吉は中国大返しを成功させ、山崎の合戦で明智光秀に勝利しました。本能寺の変より、わずか11日後のことです。

天正15年(1587)九州平定後は、豊前(ぶぜん)6郡を与えられて中津に入ります。その2年後には、官兵衛は隠居し、家督を子の長政に譲りました。官兵衛、44歳の時のことでした。しかし、その後も秀吉の軍師として活躍しています。

秀吉の死後、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、九州で大友義統(よしむね)を下し、豊前小倉の毛利勝信を攻めます。その後、島津氏を攻めようと進んだところで、徳川家康の命があり兵を止めたと言います。止められていなければ、九州を制圧し、より高みへと進んでいたのでしょうか…? その後、慶長9年(1604)黒田官兵衛は59歳で人生の幕を閉じました。

「如水居士像」(崇福寺所蔵)

官兵衛は軍師としてだけでなく、和歌や茶の湯を愛した文化人でもありました。当初、「“茶の湯”は武士に不似合いな遊戯」として嘲笑していたそうですが、秀吉から“誰にも怪しまれず軍事の相談ができる”と教えられてからは茶の道に邁進したそうです。その後は、自ら茶法を定めて茶室に掲げていたとか。こうしたことからも官兵衛の仕事熱心で真面目な人柄が伝わってきます。

「我、人に媚びず、富貴を望まず」という言葉は、そんな官兵衛の座右の銘でした。名誉や利益を好まず、倹約に励んだ官兵衛の人柄をよく表しています。

文・構成・アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com Facebook

 

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