はじめに-松平昌久とはどんな人物だったのか
松平昌久(まつだいら・まさひさ)は、大草松平家(おおくさまつだいらけ)の当主として、同じ松平家出身でも分家が異なる徳川家康に対して、対抗意識を持っていました。三河の一向一揆の際、一揆に呼応して反家康方に与したというエピソードは有名です。
そんな昌久ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、松平氏の分家・大草松平家の当主として、家康が当主を務める松平宗家の地位を狙う野心家で、今川氏や三河の国衆とも連携し、家康を転覆させるチャンスをうかがう人物(演:角田晃広)として描かれます。
目次
はじめに-松平昌久とはどんな人物だったのか
松平昌久が生きた時代
松平昌久の足跡と主な出来事
まとめ
松平昌久が生きた時代
松平昌久が生きた頃、岡崎やその周辺では、松平氏・織田氏・今川氏などの大名が勢力争いを続けていました。そのような中で昌久は、松平氏の分家・大草松平家の当主として活躍していたのです。
松平昌久の足跡と主な出来事
昌久は生年・没年ともに不詳です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
家康の岡崎城への入城を止めようとする
永禄3年(1560)、今川義元が桶狭間で織田信長に敗死した後、家康は岡崎城に入ろうとしますが、同じ松平家で分家・大草松平家の昌久が止めようとしました。同じ一族の者同士ならば、止めなくてもよいのでは(むしろ喜ばしいのでは)と思うところですが、どのような背景があったのでしょうか?
家康が属す松平家には複数の分家がおり、家康は安祥松平家の出自でした(のちの徳川宗家)。昌久の大草松平家も、この分家の一つ。松平家は一族で分家を重ね、のちにそれらは「十四松平」と称されるようになったのです。
昌久の父・昌安(まさやす)は大草城(愛知県幸田町)の城主でしたが、岡崎も支配していました。その昌安に対して、家康の祖父である安祥松平家の清康(きよやす)は岡崎を譲るよう要求。
しかし、昌安はこれに応じなかったので、大永4年(1526)に清康が山中城を攻略します。最終的に昌安が屈服・服属し、岡崎は安祥松平家が支配することになりました。
さらにその後、昌久の孫の正親(まさちか)が永禄3年(1560)に桶狭間の戦いで、家康軍の先鋒隊を務めて戦死したとか。
このような過去もあって、大草松平家の昌久が、安祥松平家の家康に対して、苦々しい思いを抱いていたと予測することができます。それが、家康の岡崎入城に対する、昌久の反発につながったのかもしれません。
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