辰野 勇(モンベル会長)

─72歳でスイス・マッターホルンを再登頂─

「年をとるほど新しい景色が見えてくる。長生きは楽しい。つくづくそう思います」

スイス・アルプスの町、ツェルマットとグリンデルワルトの観光大使を務める。国内でも立山町(富山県)観光大使などを歴任。各国の駐日大使などとも登山を通じた民間外交を行なう。

──3年前、マッターホルンに登られました。

「スイスのアイガー北壁を当時の世界最年少記録で登り、その足でマッターホルン北壁を登攀したのは昭和44年です。令和元年のマッターホルンはその50周年を記念した登頂でした。この山は自分にとっていろんな意味で原点なのです。麓には僕たちの会社、モンベルの店舗があり、コロナ前は日本からお客様をお連れするトレッキングツアーを毎年開催していました。訪れるたびに美しい山容が目に入る。昔のガールフレンドと会う感覚で眺めていたのですが、地元ツェルマットの観光局長から“タツノ、もう一度あの頂上を目指してみないか”と誘われたのです。

若いとき記録に残る登頂を果たしたといっても、もう自分は70 歳を過ぎている。とはいえ、黄ばんだ昔の新聞記事を財布に入れて持ち歩くような人生もさみしい。地元で最も腕利きのガイドをつけてもらい、一般ルートから登ってみることにしました。標高が4400m以上もあるので高度順応をしておいたほうがよいということで、前日に比較的登りやすい低い山へ行ったのですが、そこで高山病になってしまって」

──大変なアクシデントでしたね。

「僕は足腰には自信があったのだけれど、昔から高山病に弱いんですよ。トレーニングだと思ってちょっと無理したのがいけなかった。翌日はマッターホルンのベースになる小屋に入ったのだけれど、息苦しくて食事もとれない。それでもやめるという考えはまったくなく、朝4時に起きて暗い中を登り始めたのですが、体調は戻らない。頂上は見えているのに足が鉛のように重くて進めません。ガイドが訊ねました。やめるか? と。一緒に登ってくれた観光局長は、タツノ、登りたいか? と聞きました。そりゃ登りたいよと答えるとしばらく協議し、さあ行こう、万全の態勢でサポートするよといってくれたのです。技術的には難しくない壁ですけれど、とにかく息が苦しい。あたりの景色が歪むように見えました。よたよたと一歩ずつ登り、やっとマリア像のある頂上までたどり着きました」

──どんな気持ちでしたか。

「やれやれ、という感じ。じつは50年前に登ったときも僕は高山病にかかったんです。こういうときはとにかくしんどく、余韻を楽しむゆとりなどありません。一刻も早く下りたいというのが本音。それでも頂上から見おろすと北壁が見える。ああ、20代のときはあそこを登ってきたんだなと感慨にふけりました。とにかくやりきったという実感は持つことができ、その後のささやかな自信になりました。

山一筋で生きてきた自分としては、ガイドに連れられて登るなんてプライドが許さなかったのだけれど、結果としてはよかった。なぜなら70代というのはそういう歳なのだということを理解できたので。20代のときと同じことはできないけれど、70代には70代のやり方があって、それを守れば現役で頑張れる。マッターホルンという昔のガールフレンドは、とても大事なことを教えてくれました」

72歳で、人生2度目のマッターホルンへの挑戦。高山病にかかりほうほうの体での登頂だったが、もう若くないことを自覚できたことで生き方が楽になったという。

──60歳で社長から会長になりました。

「僕は28歳のときにモンベルを起業しました。当時の登山用品は、重く、かさばり、濡れると乾きにくい粗末なものばかり。寝袋は米軍の払い下げ品でした。ベトナム戦争の頃で、死亡した兵士は沖縄に運ばれ、そこで柩に移され本国へ送られました。放出品の寝袋は遺体搬送に使われたものだったのです。水鳥の羽毛ではなく、鶏の羽根を詰めてあるんじゃないかと思うほど硬い。そういう時代、僕はたまたま繊維商社に就職し、アメリカのデュポン社などが開発した高機能の新素材にいち早く触れることができました。こういった素材を活かせば、快適で使いやすく、安心して命を預けられる、つまり自分が使いたい、仲間にも使わせたい登山用品を開発できると思い立った。その会社もいつの間にか大きくなり社会的責任も増しました。さらなる基盤強化のため還暦を機に社長を譲ったのです」

──今では100以上の直営店があります。

「おかげさまで多くのお客さんに支持していただいていますが、順風満帆だったわけではありません。何度も危機に見舞われ、修羅場の中で決断を迫られました。経営は登山と同じだな、と思います。山ではちょっとしたことで人が死ぬんですよ。準備不足、過信、想像力の欠如、判断ミス、そして決断の遅れ。不可抗力の場合もありますが、死なずに無事帰ってくるにはどうすればよいかをつねに考える必要がある。僕は経営にも慎重さと大胆さの両面が必要だと思ってきました。アイガー北壁に挑んだときも、モンベルを創業したときも、決断の拠り所になったのは“行けるだろう”という1%の自信です」

実家は寿司店で8人きょうだいの末っ子。働く両親の背中を見つめて育ったせいか、金銭感覚に鋭敏だった。「アイガー北壁に憧れたときも、まず貯金から計画を始めましたね」

「真っすぐ進めなければ迂回する。ルートが見つかれば失敗ではない」

──1%の自信とはどういう意味ですか。

「もしその可能性が50%なら、行動を起こすべきでないと思います。可能性50%以下での挑戦は明らかに無謀。そういった状況下では奇跡も起きません。けれど、51%の確信があれば、その道は夢につながります。奇跡だって起きるかもしれない。もちろん保証はないわけですが、1%の僅差が成功と失敗を分かつ天秤の針の位置を決めるのです。

古くからの友人にはいわれます。辰野、お前には失敗という概念がないのかと。ないわけではないけれど、自分自身の判断や決断の結果を失敗と考えたことはありません。うまくいかないのは不都合な状況に直面しているから。真っすぐ進めないのなら遠回りすればいい。失敗とはゲームセットのことをいいます。
63歳で大腸がんがわかったときも含め、今自分が直面している困難は不都合であり、違う登攀(とうはん)ルートがあるはずだという考えで冷静に危機と向き合ってきました」

63歳で大腸がんがわかり手術を受けた。「ステージは1でしたが、カルテの数字が手書きで2に見え、覚悟しました。その後の命は拾ったものと思っています」。自宅の書斎にて。

──被災地支援活動も率いてこられました。

「アウトドア義援隊といいます。大腸がんの手術をした翌年、東日本大震災が起きました。僕は翌日予定していた山形県での講演をキャンセルしましたが、その足ですぐにハイブリッドカーのプリウスを運転し日本海回りで山形へ向かいました。被災地支援の物流拠点を構築するためです。燃費に優れたハイブリッドカーならガス欠のリスクは少ない。山形を候補にしたのは、当初は原発事故の情報がまだ錯綜していたからです。仙台にもモンベルの店舗があるのですが、そこを支援の拠点にしたことで二次被害が起きるようなことはあってはならない。いろいろ探すと、仙台から見て山向こうの天童市にミツミ電機という会社の空き倉庫があり、そこを使わせてもらうことができました」

──アウトドア義援隊とは。

「もともとは平成7年の阪神・淡路大震災のときに立ち上げたボランティア組織です。僕らがあれだけの自然災害を間近に体験したのは初めてでした。家を失い途方にくれている人たちに今何が必要か。雨露をしのげる空間と寒さから身を守るものが必要だと判断し、商品の出荷を止めてテント500張りと寝袋2000個を神戸で配りました。

ただ、われわれだけでは力不足であることも痛感しました。そこでアウトドア仲間にも支援依頼をすることにしたのです。A4の紙に、人、物、金と書き、人はここへ集まってくれ、物はここへ運んでくれ、お金はここに振り込んでほしいと、友人知人、取引関係者100人くらいにファックスを送りました。日頃からアウトドアをやっている連中は自分の身を守るスキルも持っているし、過酷な状況にもタフです。ボランティアの先陣として大きな力を発揮してくれました。

東北地方で巨大な地震が起き、津波でとてつもない被害が出ていることを報道で知ったとき、阪神・淡路大震災を思い出したのです。周りの人間に、おい、あのときの口座ってまだあるかと聞いたら、ありますという。お金も一部残っていた。さっそくアウトドア義援隊を復活させました」

──具体的にはどのようなことを。

「今いったように、災害支援に必要なのは人、物、金です。人はボランティア。物はカップラーメンひとつ、毛布1枚でもいいので最寄りのモンベルの店舗に持ってきてもらえれば現地へ届ける仕組みを整えました。義援金も広く募りました。天童の基地で仕分けし、2トントラックに荷物を積んで三陸海岸を毎日回りました。3か月でのべ150回。ということは300トンです。

担ってくれたボランティアの中には、想像を絶する被害を見て、自分がやっていることはほんとうに役立っているのだろうかと無力感に苛まれる人もいました。僕は彼らにいったんですよ。負い目に感じる必要なんてない。ひとりの人間ができることなどもともと限られている。けれど、100人がやれば100人の力になる。ひとりで100人を助けようなんて考えず、誰かひとり喜んでくれると思えばそれでいいじゃないかと」

──包括連携という取り組みもされています。

「アウトドア用品を売るだけではなく、アウトドアの力でできること、つまり仕事を通じて社会貢献しようと、地方自治体や企業、大学などと包括連携協定を結んでいます。内容は7項目。自然環境保全意識の醸成。子どもたちの生きる力の育成。健康寿命の増進。自然災害への対応力の向上。地域の魅力発信とエコツーリズムの促進。農林水産業の活性化。高齢者、障がい者のバリアフリー実現です」

「アウトドアはレジャーを超え、すでに日本人の生き方のひとつ」

平成26年からは老舗山岳雑誌『岳人』の発行を中日新聞東京本社から引き継ぎ、編集長を務める。「雑誌は生き物。物作りとはまた勝手が違うけれど、それが面白いね」

──さまざまな可能性があるのですね。

「ひとくちにアウトドアといっても、ざっとこれだけの社会的な意義を秘めているのです。これを地域づくりに活かしていこうというのが包括連携協定の主旨です。現在、地方自治体を中心に92の連携先がありますが、互いに何かの義務を負うといった性格の協定ではありません。必要に応じて一緒に取り組んでいきましょうというものです」

──地方自治体が多い理由はなんですか。

「これから重視していくべきは自然だということに気づいたからでしょう。アウトドアは、たんなる流行ではなく人にとって大切な生き方だというふうに認知されつつあります。地方には山や川、海といった自然が豊富にあるわけですが、その資源を生かすのも殺すのも自分たち地域の人だと受け止められるようになってきた。今住んでいる人たちに誇りを持って住み続けてもらうためにも、新しい視点の提示が必要だと判断されているのでしょう。

地方とのこうしたお付き合いをきっかけに、自然に負荷をかけない持続可能な地域活性化イベントなども生まれました。海から山の頂上まで人力で目指す人数限定の『シー・トゥ・サミット』や、旅をしながら地域の人たちと交流できる情報を提供する『ジャパン・エコトラック』といったしくみです」

──最近思うことはありますか。

「やはり老いについて、ですかね。20代のときは30代、40代の自分を想像できませんでした。仲間が山で次々に死んでいきましたから、自分もそうなるのだろうなと思っていました。72歳で2度目のマッターホルンを登って感じるようになったのは、人生における景色です。20代には20代の、40代には40代の景色があり、70代の今はまた別な景色が見え始めている。ここでいう景色とは理想とする居場所だったり、山の楽しみ方でもありますが、いずれにしても見える景色は年齢によって変わる。

長生きするのはいいことですよ。つねに見たことのない新しい景色に出会えます。それに、僕みたいな凡人は生きた時間で人生の帳尻を合わせるしかないのです。長生きすることで、若くして山で人生を燃焼した仲間たちに並ぶことができる気がします」

50歳から奈良市内に居住。自宅には樹齢500年と伝わる榎がある。「この榎は昔の一里塚だったようです」。気が向くと根株に座り、25年ほど楽しんでいる横笛を吹く。

辰野 勇(たつの・いさむ)
昭和22年、大阪府堺市生まれ。21歳だった昭和44年7月、スイスのアイガー北壁を当時の世界最年少記録で登攀。翌月に同国のマッターホルン北壁を登攀。登山用品店、繊維商社勤務を経て昭和50年にアウトドア用品メーカー・株式会社モンベルを創業する。平成19年より会長兼CEO。野外教育や被災地支援、地方創生などの分野でも精力的な活動を続けている。

※この記事は『サライ』本誌2022年5月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/鹿熊 勤 撮影/宮地 工)

 

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