家康の反逆により、自害となる
しかし「桶狭間の戦い」の後、娘婿である家康が今川氏から独立。今川氏を裏切り、織田氏と同盟関係を築きます。これを受け、今川氏真からは義父である氏純もまた、家康と通じているのではないかと疑われます。それにより、氏純は妻・巴とともに自害に追い込まれたといわれています。彼らの没年など、詳細は明らかではありません。
娘・瀬名の最期
娘である瀬名は「桶狭間の戦い」の後、今川家に人質のような形で身柄を拘束されていました。しかし、家康が独立した永禄5年(1562)、人質交換によって岡崎城に引き取られます。この際「築山」の地に居を構えたことから「築山殿」と呼ばれるようになりました。その後、織田信長の配下となった家康が遠江国・浜松城に居を移しますが、築山殿は子・信康を後見するため岡崎にとどまりました。
永禄10年(1567)になると子・信康の元には、政略結婚のため織田信長の娘(徳姫)が嫁いできました。これにより、徳川家と織田家は固い絆で結ばれます。ところが徳姫は父・信長に宛てた手紙で、築山殿と信康が甲斐の武田勝頼(かつより)と内通していると嫌疑をかけ告発。
信長に背くだけの力のなかった家康は、築山殿を切り、信康に自尽を命じました。天正7年(1579)8月29日、家康の命を受けた家臣の手によって、築山殿は佐鳴湖(さなるこ)の岸で暗殺されました。信康は同年9月15日、遠州・二俣(ふたまた)城で、21歳の若さで切腹したのでした。
まとめ
今川義元に仕え、今川氏の政略結婚のために、家康の義父となった「関口氏純」。しかし、家康の裏切りによって、妻とともに自害へと追い込まれてしまいました。娘・瀬名や孫・信康も、家康の命を受けて、悲しい最期を迎えています。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/トヨダリコ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)