今川氏との戦い

天文15年(1546)頃から、吉良氏の分家である今川氏は三河国に侵攻し、織田氏と戦うことになります。浜松荘の一件もあり、今川氏に対して反感の強かった吉良氏は織田氏と組んで戦いますが、結局敗北し、義昭の家系である西条吉良氏は今川氏から本拠地を奪われてしまうことに。

終戦後、義昭の兄である吉良義安(よしやす)は今川領内に移され、今川氏の監視下に置かれますが、今川氏に協力した義昭は東条吉良氏も含む吉良氏の当主となり、今川氏から東条城をあてがわれることとなりました。

東条城主廓(愛知県西尾市)

家康との戦い、吉良氏の没落

しばらくの間、今川氏の支配下に置かれることとなった吉良氏ですが、ここで一大事件が勃発します。永禄3年(1560)の「桶狭間の戦い」で、今川義元が敗死してしまうのです。これを機に今川氏を離反した松平元康(のちの家康)は、三河統一を進めていくこととなり、その矛先は東条城にいた義昭にも向けられました。

永禄4年(1561)、松平氏と吉良氏の戦いが勃発し、名将と称えられた富永忠元(ただもと)が吉良氏について戦いますが、圧倒的な軍勢で押し寄せてきた松平氏にはかなわず、義昭は東条城から追放されてしまいます。この戦いで討死した忠元は、わずか25歳という若さでした。

さらに永禄6年(1563)、家康を大いに苦しめることとなる「三河一向一揆」が勃発すると、義昭は巻き返しを図って一揆側に味方し、主将に推されます。一時は優勢でしたが、時勢に逆らうことはできず、結局松平氏に屈服してしまうのです。

近江に逃れますが、その後、摂津芥川(大阪府)で戦死。誇り高き名族・西条吉良氏は絶えることとなりました。

まとめ

戦国の世に翻弄されながらもたくましく生きた、吉良義昭。義昭が懸命に守り抜こうとした吉良一族はその後、儀礼的秩序のもと、江戸幕府において高家として復活を果たします。ところで、吉良氏といえば『忠臣蔵』で知られている「赤穂事件」のイメージが強いという方も多いのではないでしょうか?

「赤穂事件」に登場する吉良義央(よしなか、通称・上野介)は、義昭と同じ三河吉良氏の出身です。権威を失ったとされる吉良氏は、誇り高き一族として、その後も名を残していくこととなったということがわかります。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/とよだまほ(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考サイト/三河地方の深掘り情報サイト みかわこまち

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