城と支配権を奪われる

掛川城は、今川家の重臣・朝比奈泰熙(あさひなやすひろ)によって築かれたとされる城です。氏真が移り住むと、永禄12年(1569)家康軍により攻撃、包囲されます。今川氏は防戦しましたが、ついに掛川城も明け渡すこととなりました。

在印古文書. 今川氏真朱印状 永禄十二年十一月七日

掛川城を退去した氏真は、駿府城の修復完成まで伊豆・戸倉城(とくらじょう)に在城することになります。ただ、駿府城は信玄の3回目の進攻によって、武田軍の手中に落ちたのでした。これにより城を失った氏真は、北条氏の保護下に置かれ、駿河の名目的支配権も北条氏政(うじまさ)の子・氏直(うじなお)を養子とすることにより、氏政に奪われてしまいます。

北条氏から追い出され、家康に保護される

やがて元亀2年(1571)北条氏がその同盟関係を上杉氏から武田氏にかえるや、氏真は北条氏のもとより放逐され、今度は浜松の家康のもとに身を寄せたのでした。こうして今川氏は滅亡を遂げ、氏真は家康に保護される生活を送ったとされます。

その後、氏真の行方は不明となりますが、家康のもとを離れ出家。「宗誾(そうぎん)」と号し、上京して公家などと交わり、歌会・蹴鞠などに日々を過ごしたとされます。天正3年(1575)には織田信長に拾われ、伽衆(とぎしゅう=大名のそばにいて話し相手や書物の講釈などをした人)となったと伝えられますが、真偽のほどは疑わしいままです。

『集外三十六歌仙』に掲載されている画帖

家康の保護下で生涯を終える

その後、氏真は家康により三河の牧野城主に封ぜられていますが、天正5年(1577)には、これを没収されたとあります。その際、氏真は「本意の時が来たならば再び奉公すべし」という離散の証文を家臣に与えました。

しかし、その願いもむなしく、家康のもとで世話になり続けます。武蔵の品川に屋敷をあてがわれた氏真は、慶長19年(1614)12月28日、77歳で没しました。戦国大名としての「今川氏」はこうして氏真の代で滅亡しましたが、彼の子孫は絶えずに存続。江戸期を通じて「今川氏」と「品川氏」を称して、代々、高家(こうけ=江戸幕府の儀式、典礼を司る名家)となっています。

まとめ

東海を統べる今川氏の最盛期を築いた今川義元の跡を継いだ今川氏真。連歌・和歌に秀で、特に蹴鞠は名人の域に達していたとされる一方で、名家に生まれながら家を滅亡させた愚かな君主として、様々な逸話が伝えられています。

ただ、織田信長・徳川家康・武田信玄といった戦国時代きっての名将たちに取り囲まれた氏真は、必要以上に悪く描かれてしまったとも考えられます。領国の立て直しを図った政策を行ったとも言われており、愚将とするのは早計かもしれません。彼もまた、戦国の世という荒波に揉まれた人物の一人と言えるのではないでしょうか。

※表記の年代と出来事には、諸説あります

文/トヨダリコ(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)
『日本人名大辞典』(講談社)

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