文/鈴木拓也

昨今は、「人生100年時代」という言葉とともに、「長生きリスク」が語られるようになった。

では、短命ならいいかと言えば、そんなわけではないだろう。歴史上に名を残した人物だって、その大半は長く生きたからこそ、天命をなすことができた。

今回は新書『くそじじいとくそばばあの日本史 長生きは成功のもと』(ポプラ社)から、長生きのおかげで成功をつかみ取った「くそじじい」を5人紹介しよう。

古希になっても衰えない出世欲

『小倉百人一首』の選者として有名な藤原定家。定家はまた、19歳(数え年、以下同様)から74歳にわたる55年間書き続けた日記『明月記』の作者としても知られる。

これだけだと、風流を好む筆まめな文化人という印象だが、「自身の栄達への執着は並々ならぬもの」があったと、著者で古典エッセイストの大塚ひかりさんは指摘する。
例えば 40歳を過ぎた頃の日記には、「在朝の中将、皆非人、或は放埒の狂者、尾籠の白癡、凡卑の下﨟」と、希望の官位が得られなかった腹立ちで、ほかの任官者たちを罵倒している。

定家のすごさは、出世の意欲が、高齢者になっても衰えなかったことだ。69歳という、現代人でも多くが引退するような年頃(といっても当時の官僚の定年は70歳)に、中納言を目指して果敢な猟官活動を展開。「老衰甚し」の健康状態ながら、2年後の71歳の時に権中納言の座を得る。その後、『新勅撰和歌集』の編纂に携わるなど活躍し、最晩年には『小倉百人一首』を残す。

定家が、古希を迎えてますます立身出世できたのは、承久の乱によって京の権力バランスが崩れ、彼が仕えていた新興の九条家に脚光が当たったという幸運もある。しかし、それだけではない。

晩年になって願いが叶うタイプは、いつまで経っても野心を捨てない向きが多い。野心家と言うとイメージが良くないかもしれませんが、要は自分を見限らない、自分に失望しない、常人なら諦めるような状況でも自分に期待し続けるパワーがあるということです。

と、大塚さんが指摘するように、人一倍の野心家であったことが大きい。もちろん、長生きであったからこそ叶った偉業でもある。

40歳で元服という遅咲きからの大出世

定家より少し後の南北朝時代に、超遅咲きの逆転人生を歩んだのが、後崇光院伏見宮貞成(ごすこういん ふしみのみや さだふさ)だ。

北朝の崇光天皇の孫、栄仁(よしひと)親王の子として生まれながら、元服したのは40歳。第一子が生まれたのは45歳というから、本格的な人生自体のスタートが遅かった。
その後も、不遇が続く。子どもが生まれたのと相前後して父が薨去し、兄弟の治仁王も没した。このとき貞成は、治仁王を毒殺したのではとの噂を立てられ、称光天皇のお手つきと不倫したと疑われるなど、身に覚えのない嫌疑につきまとわれる。のちにすべて讒奏(ざんそう)であることが判明するが、貞成は生きた心地がしなかったに違いない。
そんな貞成にも、54歳になってチャンスが訪れる。出家予定の後小松院から、写経供養の一部を手伝ってほしいとの依頼があり、その依頼の返事にかこつけて、親王宣下を院に願い出た。後小松院は了承し、貞成は晴れて貞成親王となる。ところが――

親王になれたらなれたで、今度は称光天皇から、即位の野望があるのでは? という疑いを持たれてしまう。実際、その線もあったわけですが、疑惑の念に荒れ狂う称光天皇を憂えた後小松院は、自身の出家と共に、貞成にも出家を求めてきます。こうすれば子の称光天皇も納得すると踏んだわけです。(本書より)

驚くべきか、貞成は院の提案を受けて出家してしまう。
そんな貞成に、大きな転機が到来。まだ28歳だった称光天皇が崩御したのである。正当な跡継ぎの候補の多くがすでに夭折している中、貞成の子の彦仁親王に白羽の矢が立ち、1428年に即位式が行われる。貞成は、天皇の父となった。
やがて貞成は、野心家としての顔を前面に押し出し始める。自分の子である若い天皇に、太上天皇の尊号を要望。それが叶ったのは 13年後、76歳の時であったが、貞成はそれを辞退する。形式的な辞退なのか、その頃には野心を失っていたのか、本当のところは分からない。

シーボルトが感服した3人の「スーパーじじい」

時代はずっと下って、江戸時代の後期。大塚さんは、オランダ商館付医師であったドイツ人のシーボルトの著作『江戸参府紀行』に登場する「三人のスーパーじじい」を取り上げている。

大塚さんが筆頭にあげるのは、「薩摩侯」こと島津重豪(しげひで)。シーボルトが会った時は既に80を超える老侯であったが、「耳も目も全く衰えを見せず、強壮な体格をしておられたので、せいぜい六五歳にしか見えない」などと絶賛。オランダ語を交えながらの教養のある話しぶりに、シーボルトは惚れこんだ。
もう1人が、最上徳内。蝦夷地(北海道)調査隊の一員として何度も蝦夷地に渡り、当時その道の大専門家として知られた人物である。シーボルトは、著作の中で徳内を「尊敬している老友」「功労の多い立派な老人」と最大限の賛辞を送っている。それには理由がある。

これは徳内が、「絶対に秘密を厳守するという約束で、蝦夷の海と樺太島の略図が書いてある二枚の画布をわれわれに貸してくれた」(同四月十六日=旧暦三月十日)ためで、日本のことを調べる目的で来日しているシーボルト(スパイ説もあります)にとって、徳内が多大な利益をもたらしたということでもありますが、そうした功利的な面だけでは、この大きな敬意は説明できないものがあります。(本書より)

徳内は、著書『蝦夷草紙』の中で、松前藩によるアイヌの同化政策を批判的に論じていた。徳内としては、アイヌ独自の文化や習慣を尊重しながら治めるべきという考えであった。その先進的で、深い人間理解に裏打ちされた心情を、まだ若かったシーボルトは感服したというのが、大塚さんの見解だ。

3人目は、11代将軍家斉の侍医であった土生玄碩(はぶ げんせき)。シーボルトが瞳孔を広げる効果がある薬草を教えたことで、玄碩はお礼にと将軍から下賜された葵の御紋付きの外套をシーボルトに与えたエピソードがある。将軍からの下賜の品を外国人に贈ることは禁じられていた。そのことが後に明るみになり、玄碩は入獄の憂き目に遭う。長い獄中生活から許されたのは82歳の頃だという。

しかし、玄碩は挫けていなかった。医業を再開するや、「治療を求める者が門に満ち、隆盛を極め、八十七年の天寿を全うした」という。大塚さんは、眼病に悩む人のために、危険を冒して先進技術を得ようとしたプロ意識のある玄碩を、「スーパーじじい以外の何ものでもありません」と賛辞を送る。

* * *

人は誰しも、ある程度の年齢にさしかかると「あとは下り坂をおりてゆくしかない」と考えがちなもの。しかし、本書を読めば、何歳になってもたくましく活躍できるものだと励まされる。「長生きリスク」なんか跳ね飛ばして、長く元気に生きていこうではないか。

【今日の教養を高める1冊】
『くそじじいとくそばばあの日本史 長生きは成功のもと』

大塚ひかり著
ポプラ社

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文/鈴木拓也 老舗翻訳会社役員を退任後、フリーライター兼ボードゲーム制作者となる。趣味は神社仏閣・秘境巡りで、撮った映像をYouTube(Mystical Places in Japan)に掲載している。

 

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