「真如堂縁起絵巻」にある応仁の乱の場面(小学館『図説 日本文化の歴史6』より)

文/酒寄美智子

“ひとよむなしい(=1467)応仁の乱”……そう暗記した人も多いのでは? 勃発から550年が経った今年、「複雑でわかりにくい」と不人気だった応仁の乱が一転、空前のブームに沸いています。

火付け役となった中公新書『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(呉座勇一著、中央公論新社)では総勢300人の登場人物を動員し、応仁の乱を背景から丁寧に解説。36万部突破という大ヒットを記録しています。

応仁の乱の全容をわかりにくくしている要因の一つが、何といっても11年というその長さ。一方で、日本中世史を専門とする著者の呉座勇一さん(日本史学者、国際日本文化研究センター助教)は「応仁の乱は、始まったことではなく、長期にわたって続いたことにこそ独自の意味を持つ」(本書「はじめに」より)と記しています。

応仁の乱を理解するには、そもそも“なぜ11年も続いたのか”という、その長期化の要因について知ることが役立ちそうです。そこで本稿では、“応仁の乱が長引いた理由”に着目し、あらためて本書を読み解いてみたいと思います。

今回は、本書の第3章「大乱勃発」から最初のターニングポイント、乱勃発直後の室町将軍・足利義政とその弟・義視のすれ違いに注目します。

■停戦を遠ざけた兄・義政のちぐはぐな采配

「応仁の乱勃発の直接的な引き金になったのは畠山家の家督争いである」(本書より)

著者の呉座さんがそう指摘するように、大乱のそもそもの火種は、1450年代中頃から続いていた守護大名・畠山義就(はたけやま・よしなり)とその従兄弟・畠山政長(はたけやま・まさなが)の争いでした。

義就に山名宗全(やまな・そうぜん)、政長に細川勝元(ほそかわ・かつもと)らといった有力大名が与したことで、争いは拡大。応仁元(1467)年5月26日には、ついに細川方(東軍)と山名方(西軍)の全面衝突に至ります。

はじめ将軍・足利義政は、細川勝元と山名宗全に停戦命令を出すなど中立の立場を取っていました。しかし、それから1週間と経たない6月1日を境に、義政の采配は揺らぎ始めます。

この日、細川勝元が義政に面会し、将軍旗と山名宗全治罰の綸旨(りんじ=天皇の意向を受け側近などが発行する命令)の拝領を願い出ました。山名宗全に通じていた日野勝光が反対するも、2日後の6月3日、将軍旗は東軍・細川勝元の手にわたり、山名宗全らの西軍は“反逆者”の烙印を押されたのです。

「将軍である足利義政が中立性を失ったことで、戦争を調停する存在は消滅した。『賊軍』の烙印を押した山名方を速やかに鎮圧しない限り、戦争の早期決着は不可能になったのである」(本書より)

そんな中、同年8月23日に守護大名・大内政弘(おおうち・まさひろ)が入京し、西軍に加勢。ここで義政は再び和睦に舵を切り、火種であった畠山義就(西軍)に講和案を提示しました。しかし……。

「足利義政の講和案は時機を逸していた。大内政弘が入京した今、畠山義就が身を引く形で戦乱を集結させることは不可能だった。西軍は講和案を無視して東軍に猛攻をかけた。」(本書より)

この義政のちぐはぐな采配が、停戦のチャンスをふいにし、新たな戦火を呼び込む形になったのです。

■張り切れば張り切るほど孤立する弟・義視

そしてもう一人、乱勃発直後の収束のチャンスを遠ざけたのが、義政の弟・足利義視(よしみ)の存在でした。

乱勃発から遡ること3年の寛正5(1464)年、男子のなかった義政は、出家していた弟に後継者になってほしいと頼み、還俗させました。弟は足利義視を名乗りますが、運命とは皮肉なもの。その翌年、義政の妻・日野富子が男子(のちの義尚)を出産し、義視の立場は非常に不安定なものになっていたのです。

応仁元(1467)年5月に勃発した細川勝元軍(東軍)と山名宗全軍(西軍)との合戦は、そんなタイミングで起こった出来事でした。

6月1日、義政に将軍旗を願い出た勝元は、同じ席で「足利義視を山名討伐軍の大将に任命してほしいとも要請」したようだ、と呉座さんは綴っています。

「次期将軍たらんとする義視は、この大乱を自身の指導力を示す絶好の機会と捉えたのではないか。鈴木良一氏が指摘したように、この時期、足利義政は義視暗殺を企てた伊勢貞親を呼び戻そうとしていたので、義視にとって権威確立は焦眉の課題であった」(本書より)

義政の元で、西軍討伐の総大将を務めていた義視でしたが、戦功を立てて自身の立場を回復しようと張り切れば張り切るほど、動乱の収束を図りたい義政との足並みは乱れ、やがて義視は孤立していきました。

その後も2人の溝が埋まることはなく、応仁2(1468)年11月に義視はなんと“逆賊”とされた西軍に合流、将軍にまつり上げられ、ここに「西幕府」が成立してしまったのです。

上御霊神社前にある応仁の乱勃発地の碑

以上、今回は応仁の乱収束の最初のチャンスをつぶした、足利将軍兄弟の溝についてお伝えしました。詳しくはぜひ本書をお読みください!

次回は応仁の乱2つ目のターニングポイント、西幕府成立の頃から急速に発達したある戦法について、引き続き『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)から読み解きます。

【参考書籍】
『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』
(呉座勇一著、本体900円+税、中央公論新社)
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2016/10/102401.html

文/酒寄美智子

※ 哀しき宿命か!応仁の乱収束の芽を摘んだ将軍兄弟のすれ違い【応仁の乱を読む1】

※ 泥沼か!応仁の乱を膠着させた3つの軍事イノベーションとは【応仁の乱を読む2】

※ シーソーゲームか!応仁の乱の均衡を揺さぶったキーマン2人【応仁の乱を読む3】

 

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