泥沼か!応仁の乱を膠着させた3つの軍事イノベーションとは【応仁の乱を読む 第2回】

「真如堂縁起絵巻」にある応仁の乱の場面(小学館『図説 日本文化の歴史6』より)

文/酒寄美智子

1467年の応仁の乱勃発から550年の今年、かつてない“応仁の乱ブーム”が到来しています。火付け役となったのは中公新書『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(呉座勇一著、中央公論新社)で、2016年10月の刊行以来36万部突破という大ヒットを記録しています。

「複雑でわかりにくい」と敬遠されることも多い応仁の乱ですが、その全容をわかりにくくしている要因の一つが、11年という期間の長さでしょう。そこで本稿では、“なぜ応仁の乱はここまで長引いたのか”という点に着目し、あらためて『応仁の乱―』を読み解きます。

前回の「哀しき宿命か!応仁の乱収束の芽を摘んだ将軍兄弟のすれ違い」では、長期化の発端となった、勃発直後の将軍・足利義政とその弟・義視の間に生まれた兄弟の溝に注目しました。今回は2つめのターニングポイント、「戦法の変化」に注目します。

そこには当時の大きな“軍事的イノベーション”が関わっていたのです。

■1:新たな攻城兵器の出現

「両軍の当初のもくろみに反して戦乱が長期化した背景には、戦法の変化がある」(本書より)

日本中世史を専門とする著者の呉座勇一さん(日本史学者、国際日本文化研究センター助教)がそう指摘するように、乱の勃発直後の応仁2(1468)年ごろ、戦術面でも大きな変化が起きていました。

まず注目すべきは、「井楼(せいろう)」です。井楼とは「戦場で敵陣を偵察するために材木を井桁に組んで構築する物見櫓」(本書より)のことで、応仁の乱以前はもっぱら防御のための施設と認識されていました。

応仁2年4月、東軍・細川勝元と対峙する西軍・山名宗全は、従来よりも大きな井楼を構築しました。ここで呉座さんが注目するのは、大きさもさることながら、その使用方法です。

「経覚によると、宗全が作った井楼の上には石や火矢が用意されていた。さらに興味深いのは、『細川城を攻めんがため』に築かれたという記述だ(『経覚私要鈔』)。つまり経覚は防御施設ではなく、攻城用の施設と認識していたのである」(本書より)

応仁の乱を間近で見聞した興福寺の僧侶・経覚(きょうがく)は、肌で感じた乱のありようを克明に記していました。書き残されたものからは、宗全率いる西軍が細川勝元らの東軍陣営を攻撃する目的で井楼を使用したこと、そして、それが当時の人々にとっていかに革新的なことだったかをうかがい知ることができます。

まさに“攻撃は最大の防御”ということでしょう。

■2:“陣地の城塞化”による塹壕戦

もう一つ、応仁の乱長期化の原因として呉座さんが指摘しているのが「御構(おんかまえ)」の出現です。

「御構」とは、陣地の周囲の道路を掘って環濠とし、要塞化したもののこと。公家や武家の屋敷、数百の庶民の住居をも包摂した大規模な御構も作られていたといいます。

この「御構」と「井楼」によって、市街地での戦法が大きく変わっていきます。

「元来、市街戦は短期間で決着することが多かった。(中略)だが応仁の乱では、両軍が陣を堀や井楼で防御したため、京都での市街戦は実質的に“攻城戦”になった。敵陣=敵城を急襲して一挙に攻略することは断念せざるを得ない。陣地の城塞化が進めば進むほど、互いに弓矢や投石機を使った遠距離戦を志向するようになった」(本書より)

呉座さんは、こうした戦法と、塹壕戦によって長期化した第一次世界大戦との共通点を指摘。「応仁の乱においても、防御側優位の状況が生じた結果、戦線が膠着したのである」(本書より)と指摘しています。

■3:「足軽」出現が招いた京都の荒廃

さらに人的な面では、甲冑などをつけない軽装の歩兵「足軽」が誕生しました。

応仁2年3月、東軍に登用された骨皮道賢(ほねかわ・どうけん)が足軽大将となり、西軍の兵力・兵糧補給を阻害するため300人の足軽を動員。これ以降、東軍・西軍ともに足軽が多用されるようになります。呉座さんは「足軽の大量動員は、京都の荒廃に拍車をかけた」(本書より)と、その影響力の大きさを指摘します。

応仁2年3月、骨皮道賢率いる300人の足軽たちは伏見稲荷大社に陣を設け、社殿はその際に灰燼に帰した。現在の社殿はその後、再建されたもの。

さらに呉座さんは、この時期に足軽が使われるようになった理由について、当時の都市問題と絡めてこう解説しています。

「慢性的な飢饉状況の中、周辺村落からの流入により新たに形成され、そして着実に膨張していく都市下層民こそが足軽の最大の供給源であった。また、足利義教期以降、将軍の恣意的な裁定によって多くの大名家が浮沈を繰り返したことも見逃せない。大名家の没落にともなって失職した牢人など武士層の参加によって、下層民・飢民は土一揆として組織化され、強大な戦闘力を持つに至った」(本書より)

飢饉や大名家の没落によって増えた都市部の下層民が新たな戦力となり、敵の補給路の遮断や補給施設の破壊を担った結果、京都の市街はますます荒廃し、新たな下層民を生んでいく……そんな負のループの中、両軍は泥沼の戦いに引きずり込まれていったのです。

*  *  *

今回は、応仁の乱の戦線を膠着させ、長期化を招いた軍事面での要因についてお伝えしました。詳しくはぜひ、本書をお読みください!

次回は、拮抗する両軍の勢力構造と応仁の乱のキーマン・成身院光宣について、引き続き『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)から読み解きます。

【参考書籍】
『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』
(呉座勇一著、本体900円+税、中央公論新社)
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2016/10/102401.html

文/酒寄美智子

※ 哀しき宿命か!応仁の乱収束の芽を摘んだ将軍兄弟のすれ違い【応仁の乱を読む1】

※ 泥沼か!応仁の乱を膠着させた3つの軍事イノベーションとは【応仁の乱を読む2】

※ シーソーゲームか!応仁の乱の均衡を揺さぶったキーマン2人【応仁の乱を読む3】

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