最澄、空海、源信、法然、明恵、親鸞、道元、日蓮ら、日本の名僧たちはどのような生涯を歩んだのか。そして実際に、どのようなことを説いたのか――。彼ら名僧たちの名前は知っていても、何を考え、何を説いたのかまでは知らないことが多いのではないでしょうか。
教養動画メディア「テンミニッツTV(https://10mtv.jp/lp/serai/)」では、頼住光子先生(東京大学大学院教授)に、名僧たちの「生涯」と「著作」をご解説いただいた画期的な講座「【入門】日本仏教の名僧・名著」を配信しています。
このテンミニッツTVの頼住光子先生のシリーズ講義「【入門】日本仏教の名僧・名著」から、特別に「親鸞」編の後半部分をピックアップします。
親鸞の著書として重要なのが『唯信鈔文意』です。『唯信鈔』は同門の先輩・聖覚による著ですが、法然の教えをよく伝える書として親鸞は大切にしました。その解釈書として著した本書の中でも阿弥陀仏についての捉え方を、「法蔵神話」をもとに大乗仏教の真髄を易しい言葉で伝えています。
親鸞は、はたしてどのような言葉で、何を説いたのか。それをわかりやすく理解できる、珠玉の講座です。
以下、教養動画メディア「テンミニッツTV(https://10mtv.jp/lp/serai/)」の提供で、頼住光子先生の講義をお届けします。(※頼住先生のお名前の「頼」は、正しくは旧字)
※動画は、オンラインの教養講座「テンミニッツTV」(https://10mtv.jp/lp/serai/)からの提供です。
講師:頼住光子(東京大学大学院人文社会系研究科・文学部倫理学研究室教授)
インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
仏の三身「法身」「報身」「応化身」とその違い
――では、親鸞のお書きになった文書をさっそく読んでまいりたいと思います。最初にご紹介いただくのは『唯信鈔文意』というものです。これは、どのようなものになりますでしょうか。
頼住 親鸞が『唯信鈔』という著作についての解釈を書いた文章になります。この中で親鸞は、自分の阿弥陀仏に対する考え方をかなり突っ込んで書いているため、非常に重要な著作ではないかと思います。
――それでは本文を読んでまいります。
「法身(ほっしん)は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたへたり。この一如(いちにょ)よりかたちをあらわして、方便法身(ほうべんほっしん)とまふす御(おん)すがたをしめして、法蔵比丘(びく)となのりたまひて、不可思議の大誓願(だいせいがん)をおこして、あらわれたまふ御(おん)かたちおば、世親菩薩(せしんぼさつ)は尽十方無碍光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)となづけたてまつりたまへり。(中略)尽十方無碍光仏(じんじっぽうむげこうぶつ)とまふすひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。(中略)しかれば阿弥陀仏(あみだぶつ)は、光明(こうみょう)なり。」
これは、どのような意味になりますでしょうか。
頼住 まず「法身」について、仏教では仏の体をいくつかに分けて考えますが、一般的には「三身(さんじん)」といって3種類に分けています。
「法身(ほっしん)」というのは仏の本質であり、色・かたちを超えているといっています。それから「報身(ほうじん)」というものがございます。これは、修行した結果成仏して仏になった、そのときの仏のことを「報身」と呼んでおります。阿弥陀仏は一般的には「報身」といわれています。法蔵神話の中で、法蔵菩薩が一所懸命修行し、成仏して阿弥陀仏になったと伝えられることから、「報身」と考えられているのです。三つ目が「応化身(おうげしん)」というもので、衆生が分かりやすいようにさまざまな姿で現われた仏ということです。
――そうすると、仏さまがかたちを変えて、いろいろ現われているということですか。
頼住 そうなのです。必ずしも仏の姿をしているばかりではなく、例えば国王の姿で現われたり、美しい女性の姿で現われたりと、いろいろな姿に仏が変身して現われます。なぜかというと、いきなり仏が現われて教えたのでは近寄りがたいという人がいるので、その人に一番いいやり方(姿)で仏は姿を現わすという考え方です。
(この文章の冒頭は)そのうちの「法身」ということで、これは色・かたちを持っていないと述べています。
――もう一度お聞きしますが、三つの中での「法身」というのは、他の二つと比べて、意味としてはどういうところになるのでしょうか。
頼住 他の二つは色やかたちを持っているのですが、「法身」は色やかたちを持っていません。これは、釈尊が亡くなられたあとにお弟子さんたちが、「釈尊は亡くなってしまって、もう姿は見えないけれども、釈尊はまったくいなくなってしまったのだろうか」と考えたところから来ています。そのときに考えられたのが「色身(しきしん)」と「法身」の二つです。
「色身」では「色」という字を使いますが、「カラー」の色のことではありません。仏教では「色(しき)」と書いて、肉体や物質などを指します。ですから、「肉体としての釈迦(釈尊)は見えなくなっているけれども、その教えをかたちづくっていた釈迦の本質は残っている」と考えました。そこから仏の体に対するさまざまな議論が出てきます。大乗仏教では、先ほど申した「法身」「報身」「応化身」の「三身」が、一番オーソドックスな考え方です。
仏の「法身」と「方便法身」
頼住 ということで、親鸞はここ(『唯信鈔文意』)でまず「法身」のことを述べます。「法身」というのは色・かたちを持っていない。また、「こころもおよばれず」ということで、人間の感覚や知性のようなものによって完全に把握できない、無限なものだということをいいます。さらに、「ことばもたへたり」ということで、言葉で完全に説明することもできないものであると。
次に「この一如より」ということで、「法身」を「一如」と読み換えています。「一如」の「如」は真理を表します。ここでは「全体的な真理」ということで、ありとあらゆるものの根底にある根源的な真理を「法身」と言っているのです。
その「法身」がそこからかたちを現わして、「方便法身」が現われてくるということで、ここでは「真実の法身」と「方便の法身」の二つに分けているということになります。方便は、仏教では「手立て」という意味です。
――「嘘も方便」といいますね。
頼住 そうですね。現代語では「嘘も方便」とよく使われます。要するに、人びとに教えを説くときに、一律の教えでは分かりづらいので、この人にはこの教え、あの人にはあの教えというように、いろいろな手立てを使っていくということです。
例えば、子どもに薬を飲ませるとき、「苦い薬だよ」と言ったら飲まないから、「甘いお菓子だよ」といって口に入れるように、です。そういう意味で、いろいろな教えを説いて仏教の真理へと導いていくということになるかと思います。ここでは、「真実の法身」と「方便の法身」という二つが立てられています。
そして、「方便法身」ということで「法蔵比丘」が現われています。その法蔵比丘が、大誓願を起こします。「ありとあらゆる人が救われるまで、自分の修行が実って成仏できるとしても、あえて成仏しません」という誓願を立てて、最終的には成仏できて阿弥陀仏になった。つまり、その誓願は実っているのだから、念仏を唱える人は救われるのだというのが、浄土教の一番基本になります。要するに、方便法身として法蔵比丘が現われ、さらに阿弥陀仏が現われていくという考え方になるのです。
阿弥陀仏とは「無限の光」を指す言葉である
頼住 さらに「世親菩薩」という名が出てきますが、これはインドのお坊さんで、法然が念仏信仰の先駆者と考えていた方です。ここでは、その世親(ヴァスバンドゥ)が阿弥陀仏のことを「尽十方無碍光如来」と名付けたと言っています。つまり、尽十方無碍光如来は阿弥陀仏の別名です。
「尽十方」は「全世界(全空間)」のことで、全ての空間にあるということです。「無碍」とは「妨げられない」ということですから、「どこまでも広がっていく無限の光の仏」という意味合いで名付けたといいます。さらに、阿弥陀仏という名前も「アミターバ」というインドの言葉から来ていて、やはり「無限の光」を表します。要するに、それは無限の光なのだということを、ここで親鸞は言っているわけです。
次の「尽十方無碍光仏とまふすひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず」というところでは、阿弥陀仏の姿というと私たちは仏像のような阿弥陀仏の姿を思い浮かべるけれども、そういう姿・かたちを持っているのはあくまでも方便であって、真実の阿弥陀仏の姿にはかたちもないし色もなく、光なのだというのが、ここで親鸞が言っていることだと思います。それが最後の「しかれば阿弥陀仏は、光明なり」ということです。 光というのは、あらゆるものを包み、あらゆるものを結びつける力のことです。
そういうものを、親鸞はここで考えているのです。これはまさに大乗仏教でいっている「空-縁起」の世界の、一つの象徴的な表現ではないかと思います。
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