倒幕計画に加わる
兄とともに北条家に伝えた胤義でしたが、のち執権・義時を怨み(『承久記』は兄・義村を怨むという)、彼に抗して京都に移ります。在京すると、朝廷に仕える検非違使(けびいし)に任じられました。
そして承久3年(1221)5月には、後鳥羽上皇の家臣・藤原秀康(ひでやす)に誘われて後鳥羽上皇を筆頭とした討幕の企てに加わったのでした。そこで兄・義村に上皇方への味方を勧めましたが、退けられて失敗。「承久の乱」では京方大将軍として総指揮にあたり、京都守護・伊賀光季(みつすえ)を誅伐したことで、後鳥羽上皇から賞詞を賜わったとされます。
このように、胤義が上皇側についたのはなぜなのでしょうか。
『承久記』によれば、北条氏に我が子を殺されて嘆き悲しむ妻を哀れに思い、鎌倉への謀反を企てたとされています。胤義の妻は、頼朝の右筆として仕えた昌寛(しょうかん)の娘で、2代将軍・源頼家の愛妾とされる人物です。彼女は頼家を北条時政に、さらに頼家との子・若君(禅暁)も北条義時に殺されてしまいました。このことから、胤義は先夫(頼家)と子を北条氏によって殺されて嘆き悲しむ妻を憐れに思い、上皇側についた、とするのが通説です。
その一方で『承久記』によれば、胤義は大番役として上京したまま任期が明けてもそのまま京に留まっていたとされ、幕府への恨みから京都へ移ったとは書かれていません。このように「承久の乱」当時、なぜ胤義が在京していたかについては不明瞭なままです。
「承久の乱」にて自死
幕府と朝廷の戦いも6月になると、幕府の軍勢が大軍で京へ攻め上ってきます。胤義は、諸将と美濃国の摩免戸(まめど=現在の岐阜県各務原市)を守備し奮戦しましたが、敗退。再び軍勢を整えて宇治川に進み、供御瀬(くごせ=現在の滋賀県大津市に位置する浅瀬)を守りましたが、幕府軍・武田氏に敗れて京都に退き、東山に軍を構えました。
そんな中、後鳥羽上皇は味方である胤義を裏切ります。上皇によって、胤義は乱を引き起こした人物として逮捕の院宣を出されてしまうのです。今度は自分が追討される身となった胤義は、東寺に立てこもりました。『承久記』慈光寺本には、ここで兄・義村と対面したという記述が残っています。
その後、胤義は嵯峨太秦(うずまさ)に逃れて西山木島(このしま)社(=現在の京都市右京区太秦森ヶ東町)に子供とともに身を隠していました。しかし6月15日、進退きわまり自殺。胤義父子の首級は、兄・義村のもとに送られたとされます。
まとめ
父・義澄や兄・義村とともに三浦氏を支えた三浦胤義。幕府と朝廷の対立である「承久の乱」には、上皇側についた胤義と北条氏に仕えた兄・義村の兄弟の決裂が現れ出ているといえるのではないでしょうか。
文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)