義仲と愛妾で女武士として義仲の片腕となった巴御前の像。(義仲館)

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』、第13回「幼なじみの絆」から本格的に登場した木曽(源)義仲(演・青木崇高)について、かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏が解き明かす。

* * *

義仲(演・青木崇高)は、源頼朝(演・大泉洋)と同じ源氏の本流とされる河内源氏のひとり。義仲の父源義賢は、頼朝の父義朝の弟。つまり義仲は頼朝の従弟ということになる。

父義賢は兄の義朝と対立し、久寿2年(1155)に義朝の子悪源太義平の襲撃を受け(大倉合戦)、殺害されてしまう。このとき、わずか2歳だった義仲(当時は駒王丸)は、からくも救出され、信濃国(長野県)の木曽地方の武士、中原兼遠のもとで養育された。

源義朝は、河内源氏の棟梁と考えられているが、実は父の為義と対立して関東に下ったため、嫡子の座を失っていた。代わりに家を継ぐと目されていたのが、義仲の父義賢だったのだ。義賢と義朝が対立した背景には、こうした事情もあったことに注意が必要だ。

平氏打倒を呼び掛ける以仁王(演・木村昴)の令旨を受け、源頼朝が兵を挙げたその翌月、治承4年(1180)9月に、義仲も挙兵する。

義仲勢は当初、義仲の亡き父義賢の勢力圏であった上野国(群馬県)西部に進出したが、伊豆から房総半島に転じ、相模、武蔵へと勢力を広げた頼朝がこの年の12月に上野国の新田義重を配下に加えたことから、頼朝勢との衝突を避けるために信濃国に引き上げる。そして治承5年6月に北信濃の横田河原の戦いで平氏方政権の命を受けた越後の城助職を破ると、北陸に勢力を広げていった。

倶利伽羅峠で平家軍を撃破!

ここで義仲は、以仁王の遺児である北陸宮(木曽宮、還俗宮とも)を自軍に迎える。以仁王は治承4年に反平氏の兵を挙げるが間もなく敗死。かろうじて京を脱出した北陸宮は、藤原重秀に保護されて北陸に逃げ延びたのだ。

寿永元年(1182)8月、義仲は越中国(富山県)宮崎(朝日町か?)に北陸宮の御所を造営し、当時17歳となっていた宮の元服を行なった。平氏政権から見れば、義仲勢は頼朝勢と同じく朝廷への反乱軍に過ぎなかったが、義仲は北陸宮を要することで、挙兵の正当性を担保していたのだ。

寿永2年(1183)になると、河内源氏の志田義広と新宮行家(演・杉本哲太)が義仲のもとに身を寄せた。義広と行家はともに源義朝の異母弟にあたり、義仲にとっても頼朝にとっても叔父であった。ふたりそろって頼朝とはそりが合わなかったようだ。義広は頼朝に反発して北関東の武士を糾合し、頼朝打倒の兵を挙げたが、先手を打たれて敗れていた。行家も一時は頼朝を頼って鎌倉に身を寄せていたが、頼朝に恩賞を願い出て却下され、鎌倉を飛び出していた。

このふたりの叔父を庇護したことで、それまで均衡を保っていた義仲と頼朝の関係は急速に悪化する。義仲が平氏と手を組んで頼朝打倒に動くのではないかという風聞も流れ、頼朝は義仲への警戒を強める。義仲も、平氏の北陸追討軍の北上を恐れ、頼朝との対立を避けたいという事情があった。

同年3月、義仲は息子の義高を鎌倉に送った。頼朝の長女大姫との婚姻という名目だったが、それならば大姫が北陸に向かってもよかったわけで、実際には義高を人質として鎌倉に差し出したのは間違いない。

4月には、平氏の北陸追討軍が越前(福井県)、加賀(石川県)に攻め入った。総勢10万ともいわれる大軍で、総大将は清盛の孫、平維盛(演・濱正悟)。2年半前、あの富士川の戦いで、戦わずして逃亡するという屈辱的な敗戦を喫した人物だ。

捲土重来を期して北陸に遠征した維盛だったが、越中(富山県)礪波山の倶利伽羅峠の戦いで義仲勢に大敗する。逆に大勝利を収めた義仲勢は、そのまま平氏軍を追って京に迫る勢いだった。

しかし、越前を通過して近江(滋賀県)に入ったところで、いったん様子見をすることになる。琵琶湖西岸には、比叡山がある。延暦寺は多くの僧兵を抱える軍事勢力でもあり、比叡山は京の東の護りという位置づけで、まだこの段階では義仲勢に対して敵対するのかそれとも融和的なのか、旗幟を鮮明にしていなかったのだ。

義仲は、あえて琵琶湖東岸をゆっくりと南下し、反平氏勢力を味方に引き入れながら京に迫った。6月末ごろ、義仲は延暦寺に対し、もし平氏に味方するなら源氏の力で比叡山を滅亡に追い込んでみせると恫喝する文書を送ったという。

こうした状況に戦々恐々としていた京の平氏が、とうとう音を上げた。

6月25日、平氏の総帥である平宗盛は、畿内各地に派遣していた平氏軍をいったん京に戻し、西国への都落ちを決断した。ただちに安徳天皇の身柄や三種の神器が確保されたが、天皇家の事実上の「家長」である白河法皇は危険を察知して比叡山に逃亡していた。平氏政権にとって、これは致命的なミスだった。平氏軍は官軍ではなく朝廷から追討を受ける賊軍へと凋落し、宗盛をはじめとする平家一門の官職は剥奪されることになる。

逆に、7月28日に入京を果たした義仲や行家らは、京の守護を後白河に命じられ、8月になると義仲は左馬頭・伊予守という、平家一門と同格の官職に補任されたのだ。

治承5年(1181)閏2月の平清盛死去によって、平家は政権を後白河法皇に返上していた。しかし、頼朝ら源氏勢との和平を拒否して、あくまでも朝廷の意を受けた正規軍である「官軍」の立場は手放してはいなかった。しかし、木曽義仲に京を追われ、その義仲に後白河の身柄を確保されたことで、平家は政治的・軍事的な正当性を失ってしまったのだ。

【参考文献】
川合康『院政期武士社会と鎌倉幕府』(吉川弘文館)
長村祥知「木曾義仲——反乱軍としての政庁と官軍への転換」(『治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立』清文堂出版)
山本みなみ『史伝 北条義時』(小学館)

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安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。 北条義時研究の第一人者山本みなみさんの『史伝 北条義時』(小学館刊)をプロデュース。

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