房総半島の鋸山(千葉県安房郡鋸南町・富津市)から東京湾を望む。

一癖も二癖もありそうなキャラクターが続々と登場する大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。中でも、頼朝の今後の運命を握る存在として、ラスボス感たっぷりに登場したのが上総広常(演・佐藤浩市)だ。かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。

* * *

「この戦、俺がついた方が勝ちだ」

『鎌倉殿の13人』の劇中で上総広常(演・佐藤浩市)が自信たっぷりに語る様子は、同じ三谷幸喜脚本の大河ドラマ『新選組!』で、やはり佐藤浩市が演じていた芹沢鴨とそっくりという世評も聞こえてくる。挙兵した頼朝の軍勢が200~300という小勢だったのに、広常の軍勢は2万というから、その自信も存在感も頷ける。

ちなみに、上総勢を2万と記すのは『吾妻鏡』。『延慶本平家物語』は1万余騎、『源平闘諍録』は1千余騎としている。ずいぶん差があるものだが、少なくとも2万はいくらなんでも誇張だろう。

上総広常とは、どういう人物なのか。

上総氏は桓武平氏の流れをくむ一族で、平安時代中期に坂東(関東)に根を下ろした坂東八平氏と呼ばれる氏族集団のひとつだ。

広常の祖父にあたる平常晴は、現在の房総半島にあった上総国の権介となった。「介」とは地方行政官である国司の二番目の役職で、「権」は「仮」の意味。つまり律令制における上総国のナンバー2ということになるが、上総国は天皇の息子である親王が国司を務める国(親王任国)だった。親王は任国に赴任はしないので、上総介は上総国の実質的な長官だった。広常の父常澄も上総介を世襲していたようで、広常は3代目の上総権介ということになる。

一族を束ねていた上総広常

広常の祖父常晴の兄にあたる平常兼は、下総国の権介を名乗り、下総国千葉郷に拠点を置いた。これが千葉氏のルーツとなる。『鎌倉殿の13人』に登場する千葉常胤(演・岡本信人)は、この常兼の孫にあたる。上総を本拠とする上総氏、下総を本拠とする千葉氏をはじめとする、房総半島に拡がった一族は、両総平氏とも呼ばれた。

歴史の本では「上総広常」「上総介広常」とふたつの表記が散見する。これはなぜだろう。

「上総介」とは、すでに触れたように本来は役職名だが、当時、国司の役所である国衙に基盤をおいていた有力な武士は、本拠地の地名を名字としていた。そして「介」の字を足して自らの名乗りとするパターンが見られた。千葉介、三浦介などはその例だ。

下総権介だった千葉氏は千葉介と呼ばれたのだから、上総介と呼ばれた広常も、すでに上総を名字としていたと考えられる。つまり広常は、同時代には「上総介広常」と呼ばれていたが、名字は「上総」だったということなのだ。

ところで、上総広常の通称は「介八郎」といった。八男に生まれたことをうかがわせる。父の常澄の死後、詳細は不明ながら家督をめぐる兄弟の争いがあったようで、広常は一族抗争を生き抜いて、上総氏の家督を継いだらしい。

頼朝が挙兵した治承4年(1180)当時、広常は上総氏の家督を継いで、名目的には両総平氏を率いる立場にあったようだが、実際には一族間の争いもあり、両総平氏のなかには、平家と血縁関係にある藤原親正という荘園領主の傘下に走るものもいるなど、その支配は不安定なものだった。

前年の治承3年(1179)には、平清盛が後白河法皇の院政を停止するクーデターを起こしていた(治承三年政変)。実はこの政変が、頼朝の挙兵、そして平家の滅亡に至る争乱の呼び水となった。

できるだけ簡単に説明しよう。清盛は院の影響力を削ぐため、院や院に近い人物が所有していた所領や知行国を取り上げて、のきなみ平家一門や家人たちに分け与えた。知行国主が平家関係者に変わると、坂東にも平家の家人が目代(代官)として派遣される。

平家の家人にとっては都合の良いことだが、そうではない地元の武士層にとっては、自分たちの生活や特権を脅かす脅威に他ならない。彼らは自らの生存をかけて、平家打倒に立ち上がった。その旗頭としてふさわしい人物が、源頼朝だったのだ。

平氏政権と対立していた広常

上総広常の支配する上総にも、波が押し寄せていた。治承3年には平家の有力家人の藤原忠清が上総介に任命されたのだ。藤原忠清は、平家政権に広常の非を訴え、その権限を奪おうとする。広常はすぐに息子の能常を京都に派遣して申し開きをさせたが、平家政権は納得せず、広常を京都に召喚しようとした。

広常と平氏政権は、のっぴきならない対立関係となっていった。しかも、広常の兄で、おそらく広常と家督争いをしたと思われる上総常茂が藤原忠清と連携して、広常から家督を奪い返そうとしていた。

上総広常は、追い詰められていたのだ。

平家政権によって追い詰められていたのは、上総広常だけではなかった。一族の千葉常胤も、藤原親正や平家方の目代に圧迫を受けていた。三浦半島の三浦氏も、平清盛の信頼を背景に相模国全域に支配を広げようとする大庭景親の脅威にさらされていた。

実は、頼朝の舅であり、もっとも信をおくべき相手でもあった北条時政にも、同じような「事情」があった。

かつて伊豆の知行国主は源頼政で、その嫡男仲綱が伊豆守だった。時政はこの頼政に仕える地方官僚だったとされている。ところが、頼政・仲綱親子は、以仁王の挙兵失敗によって滅亡した。彼らに代わり、清盛の義弟にあたる平時忠が伊豆の知行国主となり、時忠嫡男の時兼が伊豆守となったのだ。

そして、伊豆の目代として派遣されたのが、平家家人の山木兼隆だ。伊豆では平家家人である伊東祐親も力を伸ばしていたため、源頼政に仕えていた北条時政は、事実上、追い詰められていたのだ。

北条時政、三浦義明(その子義澄)、そして千葉常胤、上総広常は、旗揚げ期の頼朝を支えた坂東武士の主力ともいうべき面々だが、彼らはみな、平家政権の圧迫によって一族の危機を迎えていた。源氏再興のために平家を討つというのは、スローガンとしては非常に分かりやすい。しかし、その裏には極めて現実的な坂東武士の「事情」があったのだ。

『吾妻鏡』によれば、上総広常は頼朝の呼びかけに応じて味方となったものの合流に遅れ、頼朝の叱責を受けたという。頼朝の人物を見極め、担ぐに足る人物でなければ殺害して平家に差し出そうというつもりでいた広常だが、この叱責によって頼朝に将たる器量を感じ取り、そのまま従うことにしたと『吾妻鏡』は記している。

ほかにも『吾妻鏡』には、広常が頼朝に対し不遜な態度をとった話や、源氏との累代の関係を背景に居丈高な姿勢を見せた逸話が書かれている。

広常は、頼朝が朝廷から東国の行政権を認められた寿永2年(1183)に、鎌倉において嫡男の能常とともに殺害された。『吾妻鏡』の広常の記述は、こうした「結果」を説明するための「演出」だという指摘もあるが、広常が傲岸不遜な人間であったことは事実のようだ。そして、それに見合うだけの実力(軍事力)を有していたことも。

平家滅亡後、頼朝は建久元年(1190)に上洛を果たし、後白河法に謁見した。頼朝は、自分たちが旗揚げをして平家を倒した戦いの緒戦は、上総広常という者のおかげで勝てたのだと、後白河に語ったという。いわゆる源平合戦の勝敗を見ることなく歴史の舞台から退場した広常にとって、最高の評価だろう。

【参考文献】
野口実『増補改訂 中世東国武士団の研究』(戎光祥出版)
上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』(吉川弘文館)
山本みなみ『史伝 北条義時』(小学館)

安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。 北条義時研究の第一人者山本みなみさんの『史伝 北条義時』(小学館刊)をプロデュース。

 

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