政子のうわなり討ちの顛末として、政子の父で頼朝の舅北条時政は伊豆に戻ってしまった。写真は伊豆韮山の北条邸跡(伊豆の国市)。

『鎌倉殿の13人』の第12回「亀の前事件」では、北条政子(演・小池栄子)の猛女ぶりを示すエピソードして語られてきた出来事が取り上げられた。かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏が、義経について解き明かす。

* * *

亀の前(演・江口のりこ)とは、源頼朝(演・大泉洋)の愛妾。すなわち愛人だ。『吾妻鏡』によれば、良橋太郎入道という人物の娘だという。この良橋なる人物、その名の「良橋」から下総国吉橋郷(千葉県八千代市吉橋)の領主であった可能性を指摘する向きもあるが、実際のところは不明。おそらくさほど身分の高くない人物だろう。『吾妻鏡』はこの亀の前が、

「顏皃(がんぼう)之濃(こまや)かなるのみに匪(あら)ず」

つまり「容貌が整っているだけでなく」、

「心操(こころばせ)殊に柔和(にゅうわ)也」

すなわち「性格が特に柔和であった」と記している。

『鎌倉殿の13人』に登場する亀の前は、あまり柔和には見えなかったが……。それはともかく。この亀の前と頼朝の浮気がことの発端だった。

寿永元年(1182)、政子は第二子を懐妊し、7月12日に産気づき、あらかじめ産所と決まっていた比企氏の館(比企谷殿)に移った。その前月の6月、頼朝はかねて伊豆においていた亀の前を呼び寄せ、鎌倉の東に位置する小坪(逗子市小坪)にある小中太光家の屋敷に住まわせた。妻の不在を狙って浮気をしようという魂胆であるのは指摘するまでもない。鎌倉にはおかずに、その郊外に住まわせたというのは、いくら浮気性の頼朝でも後ろめたさがあったのか、それとも単に外聞をはばかったのか。

政子は8月12日に男子を出産。万寿と名付けられたこの子こそ、2代将軍となるのちの頼家だ。待望の跡取りが誕生したにも関わらず、頼朝は政子をねぎらうどころか、ますます亀の前に入れあげ、寵愛は日を追って増し、半ば公然の関係となったようだ。

ついでに触れておくと、このころ頼朝は、亀の前だけでは飽き足らず、同じ清和源氏一族である新田義重の娘にも懸想していたらしい。

『吾妻鏡』によれば、政子が出産した翌々日、新田義重が頼朝の不興をかったとの記述がある。頼朝は新田の娘に思いを寄せ、右筆(秘書役)の伏見広綱を通じて恋文を送っていた。しかし、色よい返事がないもので新田に問いただしたところ、新田はこの件が御台所の政子の耳に入ると面倒なことになると思い、娘を他家に嫁に出してしまったのだという。頼朝はそれでへそを曲げたということなのだが、この新田の娘、実は頼朝の兄で平治の乱で命を落とした悪源太こと源義平の未亡人だったというから驚きだ。

新田義重という男は、なかなかに思慮深い人だったようだ。「危機管理能力」があったのだろう。それに較べて、頼朝の節操のなさには呆れるしかない。

やっぱりいちばん悪いのは頼朝

話を戻そう。

ともあれ、妻政子の出産で鎌倉はあわただしくも喜びに満ちていた。頼朝も長子誕生を喜んでいたはずだ。が、一方で亀の前に入れあげるあまり、ふたりの関係は御家人たちの間でも周知の事実となっていたようだ。当然、政子の耳にも入る。

11月10日、ついにこの事実を知った政子は激怒した。当然だろう。命がけで鎌倉殿の後継者を産み、鎌倉中がその喜びに包まれながら祝いの儀式に追われていた中、肝心の夫が他の女のもとに足しげく通っていたのだから。

亀の前の存在を政子に教えたのは、継母、すなわち北条時政(演・坂東彌十郎)の後妻である牧の方(ドラマではりく/演・宮沢りえ)だったという。政子はすぐに牧の方の兄、大岡時親(ドラマでは牧宗親/演・山崎一)に命じて、当時、亀の前が身を寄せていた伏見広綱の屋敷を襲撃して破壊させた。亀の前は伏見広綱の手引きで難を逃れ、大多和義久という御家人の屋敷に逃げ込んだという。

しかし、この伏見広綱という男も、新田義重の娘に恋文をわたしたり、亀の前を自分の屋敷に寄寓させてあげたりと、ずいぶんと頼朝のために尽くしているものだ。武功をもって鎌倉殿に仕える者もいれば、鎌倉殿の下世話な用事をこなす忠義者もいたということだろう。

さてこの「頼朝愛人宅襲撃事件」だが、昔から嫉妬深く気性が荒いという政子の性格を象徴する事件として語られてきた。夫の愛人宅を襲撃して家を壊してしまうなんて、いくら何でもやりすぎだということだ。もちろん、今日の社会常識に照らせば、政子の怒りの原因を作った頼朝の方がまず批判されてしかるべきだと思うが。

しかしこの行為、現在では「うわなり討ち」と呼ばれる、平安時代中期から少なくとも江戸時代初期まで日本社会で広くおこなわれていた習俗のひとつだったと考えられている。「うわなり」とは後妻のことで、前妻のことは「こなみ」と呼ぶ。「うわなり討ち」とは、夫を後妻にとられた前妻が、従者を引き連れて後妻の家に押しかけて制裁を加える乱暴行為のことだった。

政子は前妻ではなく、亀の前も後妻ではないが、「うわなり討ち」という、社会で容認されていて、なかば制度化された暴力行為をすることで夫の愛人に恥辱を与え、同時に御台所としてのプライドを保ったのだろう。まさか鎌倉殿の頼朝を攻撃するわけにもいかないから、その愛人に怒りの矛先を向けたのだ。

「実行犯」は牧宗親か大岡時親か?

『史伝 北条義時』(小学館)の著者、山本みなみ氏は、この政子の行ないが「近世史家の注目を集め、政子が『悪女』と呼ばれる一因になっている」と指摘する。そして、うわなり討ちは「決して政子だけが行なったわけではない。したがって、政子の特異な個性として考えることはできない」と喝破し、政子が「嫉妬深く」「荒い気性」だという先入観を明確に否定している。

さて、うわなり討ちの話を聞きつけた頼朝は、襲撃をした大岡時親をともなって亀の前が逃げ込んだ大多和の屋敷に赴いた。出迎えた伏見広綱は、頼朝に事件の一部始終を丁寧に説明する。頼朝は時親を詰問するが、時親はしどろもどろで地べたに額を擦り付けるばかりだった。頼朝は怒りにまかせ、時親の頭の髻(もとどり。髪を結った部分)を自らの手で切り落としてしまった。

当時の人々は頭に帽子をかぶって髷を隠すのがならわしで、頭髪を他人に見られるのは恥ずべきことであり、髻は成人男性の証しであった。髻をつかまれて切り落とされるなどということは、最大の恥辱であっただろう。

さらに頼朝は時親に言い放つ。御台所の政子を重んじるのは神妙なことだ。しかし、その命令に従うにしても、こういう場合は前もって内緒でワシに報告しておくべきだろう。それをしないで亀の前に恥辱を与えるとは、許しがたい!

面目を潰された時親は、泣きながら飛び出していったという。

ちなみに、政子の命を受けて伏見屋敷を襲撃した人物について、『吾妻鏡』は牧の方の「父」の牧宗親だとしている。宗親は牧の方の兄という説もあり、『鎌倉殿の13人』では「兄」としている。髻を斬られて泣いて逃げる人物も、『鎌倉殿の13人』では牧宗親となっている。

しかし、京都女子大学名誉教授の野口実氏は、いくら頼朝でも年長の牧家の家長にこのような恥辱を与えるとは思えないとして、正しくは牧の方の兄、大岡時親であろうと指摘。山本みなみ氏もこの説を支持している。

頼朝と政子の痴話喧嘩のような話だが、しかしことはそれでは収まらなかった。大岡時親が頼朝から侮辱された話を耳にした北条時政は、この措置に怒り、勝手に伊豆の北条に帰ってしまったのだ。時政から見れば、時親は妻(後妻)牧の方の兄、つまり身内である。娘である政子を蔑ろにされただけでなく、妻の兄まで恥辱を与えられたのだ。時政の怒りは相当なものだったろう。

頼朝も時政の反抗的な態度に腹を立てたが、冷静に状況を見極めるために、梶原景季(景時の息子)に命じ、時政の子義時がどうしているかを探りに行かせた。義時は穏便な性格なので、父には従わないで鎌倉に残っているのではないか、と。

一夫一妻多妾制の時代

頼朝の読みは当たった。義時は父とは別行動をとり、鎌倉にとどまっていた。

喜んだ頼朝は義時を呼び出し、藤原邦通という側近を通して義時に感謝の言葉を伝えた。

「時政が憤慨して伊豆に引っ込んでしまったのは困ったことだ。しかしそなたはワシの気持ちを察してそれに同行しなかった。実に感じ入った。そなたはきっと、ワシの子や孫を守ってくれることだろう。追ってほうびを与えよう」

義時は、何も論評を挟まず、「恐れ入ります」とだけ口にすると退出した。

あくまでも義時は冷静だった。頼朝が義時を深く信頼したのも、もっともなことだ。

ところで、この「うわなり討ち」のエピソードに違和感をもつ読者もいるのではないか。前近代の日本は「一夫一妻制」ではなく「一夫多妻制」ではなかったのか。ならば夫の愛人に腹を立てるというのもおかしな話ではないか、と。

明治大学教授で中世史を専門とする清水克行氏によれば、確かに戦国時代や江戸時代の大名は側室をもっていたが、これは「妻」ではなく「妾」、すなわち非公式で妻より格下の存在だったという。そして平安時代の中頃から、日本社会は建前上、しだいに「一夫一妻制」へと移行していった。しかしそれは実態としては「一夫一妻多妾」制というべきものだった。つまり、男だけが正式な妻以外の妾を複数持つことが容認されたのだ。

女性の立場から見れば、妻となるか妾となるかで待遇や格式も変わってくる。跡継ぎを産んだかどうかで、本人や一族の運命も変わってくる。当然、「妻」の座をめぐる争いも起きる。女性はむしろ以前より過酷な状況に置かれたのかもしれない。「うわなり討ち」とは、そうした女性同士の対立が起きやすくなった状況を反映した習俗だったと理解すべきなのだ。

政子の行なった「うわなり討ち」は、男まさりの政子が、嫉妬に駆られて荒々しい気性を発揮した暴挙などではなかった。

妻の座を守り、跡継ぎの実母の座を守り、生家である北条氏の繁栄を守るために、止むにやまれずおこなった、「自衛戦争」だったと言えるのではないか。

事件のあとも頼朝の亀の前への寵愛はやまず、亀の前は小坪の家に帰ったとされるが、その後の消息は杳としてしれない。

亀の前の世話など、頼朝の「下世話案件(?)」担当の、あの伏見広綱はどうなったか。なんと政子の怒りをかって、遠江国に追放されてしまったという。これはまったくのとばっちりで、同情を禁じえない。

山本みなみ『史伝 北条義時』(小学館)

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【参考文献】
山本みなみ『史伝 北条義時』(小学館)
野口 実「伊豆北条氏の周辺」(『京都女子大学宗教・文化研究所 研究紀要』第20号)
野村育代『北条政子 尼将軍の時代』(吉川弘文館)
清水克行『室町は今日もハードボイルド』(新潮社)

安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。 北条義時研究の第一人者山本みなみさんの『史伝 北条義時』(小学館刊)をプロデュース。

 

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