はじめに-奥州合戦とはどんな戦いだったのか

「壇ノ浦の戦い」にて幕を閉じた源平合戦(治承・寿永の乱)。しかしその後、源氏方であった義経の追討のため、奥州での戦いが勃発します。「奥州合戦」(または「奥州征伐」)と呼ばれるこの戦いはなぜ起こり、どのように進められたのでしょうか。

目次
はじめに-奥州合戦とはどんな戦いだったのか
奥州合戦はなぜ起こったのか?
関わった武将たち
この戦いの戦況と結果
奥州征伐、その後
まとめ

奥州合戦はなぜ起こったのか?

元暦2年(1185)、壇ノ浦の戦いにて平氏を全滅させた義経は、一躍英雄として都の内外の人々にもてはやされました。そして当然その功を賞せられるべきでしたが、鎌倉御家人体制の組織を破る独断行為として頼朝の不興を買い、疎外されるに至ります。それは、彼が平氏追討戦の間に梶原景時以下の関東御家人と対立したばかりでなく、後白河上皇の頼朝・義経離間策に乗せられて頼朝の認可を待たずに検非違使・左衛門少尉になったためでした。

義経は腰越状(こしごえじょう)を送って弁解しましたが、警戒を強めた頼朝により、ついに鎌倉に帰ることを許されず、追放の身となります。追いつめられた義経は、叔父・行家(ゆきいえ)と結んで反逆を企て、元暦2年(1185)年10月、後白河上皇に強要して頼朝追討の院宣を得ました。

しかし、義経らが結集しえた軍勢は少なく、この計画は失敗に終わります。頼朝と御家人たちは苦楽をともにしてきた固い主従の絆で結ばれており、頼朝と敵対した義経のもとに集うことはなかったのです。

反対に頼朝が義経追討の兵を挙げると、義経は西海に逃れようとして摂津の大物浦(だいもつのうら)に船出しましたが難破。そののちは畿内一帯に潜伏して行方をくらまし、やがて奥州にのがれて藤原秀衡(ひでひら)の庇護を求めました。

義経が平泉にかくまわれていることが発覚するのは、文治3年(1187)に入ってからで、藤原秀衡は引き渡しを拒みました。しかし、藤原秀衡が同年10月に没すると状況が動き出します。頼朝は秀衡の子・泰衡(やすひら)に迫って、文治5年(1189)4月、ついに義経を殺させました。しかし、頼朝はこの機会に奥羽の支配をなしとげようとして、義経をかくまったことを口実に、奥州征伐を決意したのでした。

関わった武将たち

奥州合戦に関わった、主な武将をご紹介しましょう。

源氏方

・源頼朝

源頼朝

武家政治の創始者であり、鎌倉幕府初代将軍。

・千葉常胤(つねたね)

有力御家人の一人。この戦いで、東海道軍の将を務めた。

・八田知家(ともいえ)

幕府の有力御家人。常胤と同様、東海道軍の将を務めた。

・比企能員(よしかず)

幕府の有力御家人。この戦いで、北陸道軍の将を務めた。

奥州藤原氏方

・藤原泰衡

藤原泰衡

藤原秀衡の子で、奥州藤原氏の当主。

・藤原国衡(くにひら)

藤原国衡

藤原秀衡の子であり、泰衡の兄。平泉方の守将として、阿津賀志山で防戦した。

この戦いの戦況と結果

朝廷に対して藤原泰衡追討の宣旨を奏請した頼朝は、その宣下(せんげ)を待たずに、文治5年(1189)7月19日に鎌倉を出発。頼朝自らが軍を率い、進軍します。

対する平泉側は、奥州藤原氏当主の泰衡が指揮し、抵抗の主陣地を伊達郡・阿津賀志山(あつかしやま)(=現在の福島県国見町)に築きます。総勢二万で、阿武隈川の水をせきとめて往来を絶ち、征討軍の北上をここに阻止する構えでした。

28万余騎と推察される圧倒的な兵力を有した頼朝軍は、8月8日から阿津賀志山の攻撃を開始し、3日間の激戦の後、ここを落とします。戦わずして北へ逃れた泰衡を頼朝が追跡し、8月22日には平泉に入城したのでした。

泰衡はというと、9月3日、部下の河田次郎の拠る比内郡贄柵(にえのさく)に寄ったところ、河田に裏切られ、亡くなります。その首は駐留する頼朝のもとに届けられ、これを獄にかける形で、奥州合戦は終わりを告げました。

奥州合戦、その後

「奥州高舘城大合戦之図」(国芳)には、武蔵坊弁慶や源義経などが描かれている(『大日本歴史錦繪』国会図書館デジタルより)

奥州合戦は当初、義経を匿い、引き渡しに応じない泰衡に対する追討という名目の下行われました。しかし、圧力に負けた泰衡は義経の衣川館(ころもがわのたち)を攻め、自害に追い込んでいます。その時点で奥州合戦の名目は既に無かったのです。しかし、頼朝は朝廷の許可も得ないまま、征伐へと乗り出しました。

頼朝のこの行動は、一種のパフォーマンスだったのではないかとも言われています。自身の祖先が東北地方で起こった「前9年の役」で活躍したという歴史になぞらえて、全国に自身が源氏の正統な後継者であることをアピールしたのです。

そして、平泉にもどった頼朝は論功行賞をし、国府では秀衡・泰衡の先例を守って政治すべきことを命じ、10月24日、鎌倉に帰ります。奥州合戦の勝利の結果として、鎌倉の御家人は地頭として奥羽の各地に入部し、津軽・糠部(ぬかのぶ)のはてまで、その支配が及んだとされます。つまり、頼朝は九州から奥羽の果てまでを軍事的に制圧したことになり、名実ともに全国で唯一の軍事権力になったのでした。その意味で、この合戦の鎌倉幕府成立史上での意義は大きいとされます。

東北が真に一つの国政のもとに編みこまれるのは、この時代からです。奥州惣奉行制がしかれて、東北はしばらく特別行政区となりますが、まもなく幕府直轄の知行国となります。これも、東北が関東諸国とともに武家政治の主たる担い手の一つになったことを意味するといえます。

まとめ

数奇な運命にもてあそばれた悲劇的な義経の生涯は、多くの人々の同情を集め、後世には彼を英雄視する伝説・文学を生む結果となりました。そして、頼朝の思惑に巻き込まれる形で最後を迎えた奥州藤原氏もまた、我々の胸を打つ存在だったといえるのではないでしょうか。

文/豊田莉子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com Facebook

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

 

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