はじめに-源義経とはどんな人物だったのか

源義経は、平安末期~鎌倉初期の武将であり、源頼朝の異母弟です。頼朝の挙兵に参じ、その武将として義仲追討や平氏滅亡において活躍します。しかしその後、頼朝と不和となり、悲劇的な最期を遂げることとなりました。

2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、頼朝の弟であり、悲劇の武将(演:菅田将暉)として描かれます。

目次
はじめにー源義経とはどんな人物だったのか
源義経が生きた時代
源義経の足跡と主な出来事
まとめ

源義経が生きた時代

義経が生まれた平治元年(1159)は、まさに「平治の乱」が起こった頃でした。父・義朝が率いる源氏が敗れ、この乱によって父・義朝は討死。さらに、長男・源義平(よしひら)は斬首刑、次男・源朝長(ともなが)は討死し、三男・頼朝は伊豆に流罪とされたのです。

幼い義経もこのときに平氏によって捕らえられましたが、幼児であったため助けられて鞍馬寺に入れられることとなります。この後、平氏一極の時代が訪れますが、源頼朝らの挙兵により、新たな時代へと突き進んでいきます。

源義経の足跡と主な出来事

源義経は、平治元年(1159)に生まれ、文治5年(1189)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

源頼朝の腹違いの弟として誕生

源義経は、源義朝の末子であり、鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟として誕生しました。母は、九条院の雑仕女(ぞうしめ)「常盤御前」(ときわごぜん)だと伝えられています。義経の幼名は「牛若」または「九郎」(くろう)と言いました。

平治元年(1159)12月、父・源義朝が「平治の乱」にて敗死すると、母と牛若らは平氏に捕らえられましたが、幼児であったため助けられて京都の鞍馬寺に入れられました。この時期の義経の行動についてはまったく不明で、記述のほとんどが伝説・創作の域を出ないとされています。

鞍馬寺で過ごす

牛若は幼くして鞍馬寺の東光坊の阿闍梨(あじやり)のもとにあずけられ、「遮那王」(しやなおう)と呼ばれました。自分の素姓を知った牛若は平家打倒を心に秘め、昼は学問を修め、夜は鞍馬の奥にある「僧正ヶ谷」(そうじょうがだに)で武芸に励みました。

『平治物語』や『太平記』などには、この時、山の大天狗が彼を憐れんで師弟の約を結び、兵法を授け、小天狗らと立ち合わせて腕を磨かせたとする伝説もあります。

鞍馬寺を出て、奥州平泉へ

その後、義経はいつのまにか鞍馬山を抜け出し、土民の中に交じって苦役しながら諸国流浪の末、奥州平泉(ひらいずみ)にたどりつきます。そこでは、藤原秀衡(ひでひら)の庇護を受けたのでした。義経の鞍馬寺における生活、その後の東下りの事情などはいっさい不明となっています。

この時期で特筆すべき伝説は、義経と武蔵坊弁慶との出会いを伝えるものです。『義経記』では五条天神と清水寺でのこととなっていますが、五条橋での二人の対戦を描くいわゆる橋弁慶伝説は特に有名です。

この伝説では、太刀1000本を奪う悲願を立てる弁慶が義経と対戦して敗れ家来となる流れですが、1000本の太刀を奪うのが義経となっているものもあります。

鎌倉殿の代官として活躍

治承4年(1180)、兄・頼朝の挙兵を聞くと、義経は奥州平泉より駿河国黄瀬川に参陣します。頼朝の家来となった義経は「鎌倉殿の代官」として、庶兄・源範頼(のりより)とともに平家追討の大将軍となります。

こうして元暦元年(1184)正月、まず木曽義仲(きそよしなか)に大勝、都の覇権を握ります。さらに2月、平軍を一ノ谷に撃破して、その入京の気勢をくじくと、文治元年(1185)2月、西海の海に浮かぶ平軍を屋島に奇襲して大勝し、勝ちに乗じてこれを関門海峡のはざまに追い詰め、壇ノ浦の戦いにてついに平軍を全滅しました。

この時代の義経の活躍は『平家物語』などに見られます。なかでも摂津国・一ノ谷鵯越(ひよどりごえ)で、人馬も通わぬ嶮岨な坂で精兵3000を率いて敵陣の背後をついた「坂下し伝説」や、屋島の合戦に海に落とした自分の弓を、危険を冒して拾い上げる「弓流し伝説」、壇ノ浦の海戦にて敵将に追われた際に、次々と8艘の船に跳び移り、これを逃れた「八艘飛び伝説」などが有名です。

頼朝と対立し、追放の身となる

当然、義経はその大功を賞せられるべきところでしたが、後白河上皇の頼朝・義経離間策にのせられて頼朝の認可を待たずに検非違使(けびいし)・左衛門少尉(さえもんのじょう)になったため、独断行為として頼朝の不興を買い、疎外されてしまいます。義経は腰越状(こしごえじょう)を送って弁解しましたが、ついに鎌倉に帰ることを許されず、追放の身となったのでした。

義経が頼朝の反感を買ったのには他にも様々な理由がありました。その根本には、頼朝が源家の棟梁として郎党組織のうえにその権力を構えているのに、義経にはそのような固有の郎党組織がなく、義経およびその「手郎党」の個人的力量にすべてがかかっていたところにあるとされています。

そのため、全ての御家人を通して組織全体の集団行動として戦われるべき合戦が、義経の独断専行という形になったため、頼朝の御家人たちと対立し、ひいては頼朝に疎外される結果ともなったのでした。

奥州平泉にて自害する

京都側は頼朝を牽制する意味合いもあって、義経に同情的であり、畿内の寺社が彼を匿いました。北条時政が大軍を率いて討手に向かったとの噂を聞いた義経は、西海に下ろうとして大物浦(だいもつのうら)に難船したのちは、各所に転々して追及の手を逃れることとなります。

頼朝は守護・地頭を設置して厳しくこれを追捕させました。藤原秀衡を頼って再度平泉に逃れた義経は、秀衡死後、頼朝に屈した秀衡の子・藤原泰衡(やすひら)の襲撃に合います。衣川の館に駆けつけた義経の仲間らも奮戦しますが、敵わず、弁慶は立往生を遂げます。そして文治5年(1189)4月30日、義経は妻子とともに自害をし、31歳でこの世を去ったのでした。

まとめ

幼少期の生い立ちや源平合戦での活躍など、数々の伝説を残している源義経。現在でも、彼やその家来にまつわる伝説は各地に数多く残っています。その悲劇的な最期も含めて、我々の心を捉えて離さない人物だといえるのではないでしょうか。

文/豊田莉子(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com
Facebook:https://www.facebook.com/kyotomedialine/

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

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