はじめに-壇ノ浦の戦いとはどんな戦いだったのか

「壇ノ浦の戦い」は源平合戦(治承・寿永の乱)の最後の戦いです。源氏の勝利、平家の滅亡により、長きにわたった治承・寿永の乱が終焉を迎えました。では、一つの歴史にピリオドを打ったこの「壇ノ浦の戦い」はなぜ起こり、どのように進められたのでしょうか。

目次
はじめに-壇ノ浦の戦いとはどんな戦いだったのか
壇ノ浦の戦いはなぜ起こったのか?
関わった武将たち
この戦いの戦況と結果
壇ノ浦の戦い、その後
まとめ

壇ノ浦の戦いはなぜ起こったのか?

文治元年(1185)2月、「屋島の戦い」で源義経の強襲に敗れた総帥・平宗盛(むねもり)らは、瀬戸内海を西に逃れて長門国の彦島(=現在の下関市)に拠り、平知盛(とももり)の軍と合体。九州にわたった源範頼(のりより)の軍により退路を断たれた平氏は、関門海峡の制海権の維持し、そこで義経の船団を迎撃せんとします。

一方、義経軍は平氏を追いながらも、合戦に充分な水軍を編成するため、「屋島の戦い」の後、約1か月の兵力増強に費やしたのでした。そして総勢800余艘を率いて長門に進発し、3月23日に壇ノ浦の奥津(おいつ)に至りました。

翌日、彦島を発した平氏の軍船500余艘は源氏軍と壇ノ浦で遭遇し、正午頃から激しい戦闘状態に入ったとされています。かくして、戦いの火ぶたが切られました。

関わった武将たち

壇ノ浦の戦いに関わった、源平の主な武将をご紹介しましょう。

源氏方

・源義経

頼朝の異母弟にあたる武将。幼い頃に、鞍馬寺に入り、さらに奥州の藤原秀衡のもとに身を寄せました。その後、兄・頼朝の挙兵に応じて義仲を討ち、数々の戦いで平氏を破った人物です。

・梶原景時(かげとき)

梶原景時

幕府の御家人である武将。平氏追討戦では軍奉行(いくさぶぎょう)として西上し、義経軍に属します。

平家方

・平宗盛

平宗盛

清盛の子。総大将として一門を率いる人物です。この戦いで生け捕られ、のちに斬られます。

・平知盛(とももり)

清盛の子であり、宗盛の弟。この戦いで海へ身を投げ、34歳という若さで自害しました。

・平教盛(のりもり)

清盛の弟にあたる武将。敗戦を悟ると、兄・経盛(つねもり)と手をとって入水したと伝えられています。

この戦いの戦況と結果

開戦当初は平氏側優勢に進んでいましたが、次第に源氏側が押し返し、午後4時ごろには勝利を決定的なものとしたと考えられています。このとき、勝敗を決したのは関門海峡の潮の流れだったのではないかとする説が一般的です。当初、平氏側から源氏側に向けて流れる潮流に乗った平氏でしたが、潮目が変わったことで今度は源氏がうまく潮を操り、攻撃が有利になったのでした。

勝敗が決したことを悟ると、平氏側の大将として指揮を執った、平宗盛の弟・知盛をはじめとする平氏一門の武将は次々と海に身を投じ、自害します。また、天皇の母・建礼門院徳子は入水後救助され、宗盛・清宗(きよむね)父子らは生け捕られました。

当時6歳だった平清盛の孫で、平氏一門に天皇として擁立された安徳天皇も入水。彼は、祖母である二位尼(にいのあま)と共に「三種の神器」のひとつである宝剣「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」を伴って海へ身を投げたと伝えられています。その後、海の中へと投じられた「三種の神器」のうち、神鏡と神璽は引き上げられて回収されたものの、宝剣だけは見つからず失われてしまったのでした。

また、壇ノ浦の戦いには多くの憶測や伝承が残されています。その伝承の中でも特に有名な話が、源義経の「八艘飛び(はっそうとび)」です。戦いの中で平氏随一の猛将・平教経(のりつね)は、義経を道連れにしようと義経の船に乗り移ります。そこで、義経は船から船へと飛び移り、逃げてしまいました。この際、八艘も彼方へ逃げ去ったという伝説からこの名前がつけられたのです。

壇ノ浦の戦い、その後

勝報に接した鎌倉の頼朝は、範頼には九州にとどまって平氏旧領の処分に当たり、義経には神器・捕虜を伴って上洛するよう命じました。

平氏の滅亡という形で幕を閉じたこの戦いですが、頼朝は必ずしも平氏を滅亡させようとは考えていなかったとされています。頼朝の目的は関東の武士の自立であったため、平氏の追討はあくまで降伏を着地点としていたとも考えられます。朝廷のなかにも、安徳天皇と三種の神器の引き渡しによる、平氏との和平交渉を進めようとしている者もいました。

しかし、大将を務めた義経は降伏の隙も与えぬまま、一気に平氏を攻め滅ぼしたため、安徳天皇は亡くなり、神器も海の藻屑と消えてしまいました。義経とともに従軍した梶原景時は、壇ノ浦における義経の独断横行に憤慨し、頼朝に報告しています。戦いの後、頼朝・義経兄弟の不和は決定的となりますが、『平家物語』にはこの際に景時が頼朝に讒言したのが不和の原因だとする記述があります。

また、壇ノ浦の戦いが終結しても、しばらくは政治が安定しませんでした。後白河法皇は源義経に源頼朝を討つようにと命令を出しましたが、源頼朝に圧力をかけられたことで、今度は義経を討伐するように、と命じています。結果、義経は奥州藤原氏を頼るものの、源頼朝を恐れた藤原泰衡(やすひら)の攻撃を受けて、自害という最期を迎えました。

まとめ

『平家物語』や『源平盛衰記』等の軍記物語を通じて描かれる、治承4年(1180)の以仁王の令旨から今回解説した壇ノ浦の戦いまでを総称し、「治承・寿永の乱」もしくは「源平合戦」と呼びます。「平治の乱」において平清盛が助命した、幼き源頼朝と義経という兄弟が、のちに清盛の一門を滅ぼす……。「源平合戦」にみられるそういった因果な結末や、戦いとともに伝えられる数々の人間模様は、数百年後を生きる私たちの心をもとらえて離さないものだといえるのではないでしょうか。

文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com Facebook

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

 

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