はじめに-屋島の戦いとはどんな戦いだったのか

平安時代後期に勃発した源平合戦(治承・寿永の乱)。その一つである「屋島の戦い」は文治元年(1185)に、讃岐国屋島(=現在の香川県高松市)で行われた合戦です。那須与一の「扇の的当て」の伝説が生まれた戦いとしても知られています。では、「屋島の戦い」はなぜ起こり、どのように進められたのでしょうか。

目次
はじめに-屋島の戦いとはどんな戦いだったのか
屋島の戦いはなぜ起こったのか?
関わった武将たち
この戦いの戦況と結果
屋島の戦い、その後
まとめ

屋島の戦いはなぜ起こったのか?

寿永3年(1184)2月の「一ノ谷の戦い」に勝利した源頼朝は、源範頼(のりより)には主力勢を率いて鎌倉へ帰還させ、義経には在京代官として西国の軍勢を委ねました。義経は山城・摂津・河内・和泉を直轄とし、平家余党の探索、その所領の接収、治安の回復、御家人の編成、兵糧の徴収などを家臣らにあたらせました。

一方、同年8月には、再び鎌倉から範頼が大将軍として追討軍に派遣されました。総指揮官として平氏追討のため山陽道を西へ向かった範頼でしたが、翌年正月に至ってもはかばかしい戦果を上げられずにいました。というのも、平氏方は平知盛(とももり)が長門国(=現在の山口県)の彦島に拠って関門海峡を押さえ、なお瀬戸内一帯の制海権を温存していたからでした。

それを受けて、ついに頼朝は総指揮官の任を解いていた義経の起用に踏み切ります。そして、文治元年(1185)2月16日に義経は四国渡海を決行。屋島を攻撃したことで、「屋島の戦い」が始まりました。

関わった武将たち

屋島の戦いに関わった、源平の主な武将をご紹介しましょう。

源氏方

・源義経

源義経

頼朝の異母弟にあたる武将。幼い頃に、鞍馬寺に入り、さらに奥州の藤原秀衡のもとに身を寄せました。その後、兄・頼朝の挙兵に応じて義仲を討ち、数々の戦いで平氏を破った人物です。

・梶原景時(かげとき)

幕府の御家人である武将。平氏追討戦では軍奉行(いくさぶぎょう)として西上し、義経軍に属します。

・佐藤継信(つぎのぶ)

義経の家人。この合戦で、自ら盾となり義経を守ったことで討死したと伝えられています。

・那須与一(なすのよいち)

下総の那須氏の豪族。随一の弓の名手であったことが知られています。

平家方

・平宗盛(むねもり)

平宗盛

清盛の子。総大将として一門を率いる人物です。攻撃を受け、安徳天皇と一門を連れて海上の船へと逃亡しました。

・田口成良(しげよし)

阿波国の有力在地武士。平家方として参加していました。

この戦いの戦況と結果

2月18日未明、風雨に乗じて摂津渡辺を出帆した義経は、同日早朝150余騎とともに阿波勝浦(=現在の徳島市)に上陸。そこで在地の武士・近藤親家(いえちか)を味方につけます。親家から、平家軍において四国での大きな戦力である田口氏の軍勢が伊予へ出兵していることを聞いた義経は、屋島が手薄であり、今が好機と判断しました。

当時その名のとおり「島」であった屋島は、通常であれば馬に乗っての攻撃は難しい場所でした。そこで、馬でも攻め入ることができるほどの浅瀬になる干潮時を狙い、一気に屋島を攻撃したのです。その際、義経は大軍の襲来と見せかける為に民家を放火しながら平氏軍を背後から急襲したとされています。

屋島の対岸に数百艘にも及ぶ軍船を隠し、海路からの源氏の襲来に備えていた平家ですが、背後からの急襲に慌てふためき、辛うじて船で沖へと逃げます。源氏の奇襲は成功し、屋島は義経の手に落ちることになりました。

このとき屋島に集まっていた兵力としては、平氏軍が約3000騎であるのに対し、奇襲をかけた義経軍は約150騎程度であったとされています。数字の上では圧倒的に不利な状況の中、「一ノ谷の戦い」に引き続き、義経の奇襲攻撃で源氏方の勝利を確かなものにしたのでした。

また、有名な伝説である「扇の的当て」は、この戦いの休戦中、平氏軍の船中から女性が現れ、竿の先に括り付けた扇を射てと源氏を挑発したことから始まります。これを辞退しては源氏の名折れと考えた源義経は、現地にいた家臣のなかでも、随一の弓の名手であった「那須与一」に扇の的を射るように命じました。

与一は、主君の命を断ることはできず、ついに的を射る役目を受けることを決意します。そして、見事に扇の的を射落としました。その腕前に敵味方を問わず両軍から歓声が沸き上がったとされています。ただ、この出来事は『平家物語』や『源平盛衰記』によって伝承された逸話の域を出ません。

また、義経軍に属していた梶原景時と義経にまつわる逸話もあります。『平家物語』によれば、景時は船に逆櫓(さかろ)をつけて自由に進退できるようにしようと提案したものの、義経は兵が臆病風にふかれて退いてしまうと反対。「逆櫓論争」として知られるこの口論の後、義経は暴風のなかを5艘150騎で出港して屋島を落としました。

逆櫓論争
逆櫓論争(『大日本歴史錦繪』デジタル国会図書館より)

義経軍に遅れて景時の本隊が到着した時には、すでに平家は逃亡していました。義経は景時を「六日の菖蒲(時機に後れて役に立たない)」と嘲笑したとされています。ここで生じた二人の対立が、後の義経の失脚に繋がっていきます。

屋島の戦い、その後

2月21日、平氏軍はいったん志度浦(しどうら)(=現在の香川県さぬき市)に退いたのち、長門国の彦島に本陣を構えました。既に九州は範頼の大軍によって押さえられているため、平家一族は瀬戸内海で孤立している状態でした。これを契機として、熊野、河野などの有力水軍の参加を得た源氏軍は、平氏方より制海権を奪取し、来たるべき壇ノ浦の海上決戦に備えることとなります。

まとめ

最後の戦いとして有名な壇ノ浦の戦いへと繋がる、「屋島の戦い」。この戦いを紐解くことで、四国と九州で挟み撃ちをされ、じりじりと追い詰められていく平家の状況とそのひっ迫感が読み取れるのではないでしょうか。

文/豊田莉子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

 

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