田舎者とあざけられたという義仲が住んだ木曽の館跡(長野県木曽郡木曽町)。

4月24日に放送されたNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第16回「伝説の幕開け」では、ついに木曽義仲(演・青木崇高)が源義経(演・菅田将暉)らに敗れて命を落とした。義仲は、源頼朝(演・大泉洋)や義経を主人公とする物語では常に「引き立て役」だが、その実像はどのような人物だったのか?

かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏が、義仲について解き明かす。

* * *

木曽の山中で育った木曽義仲のオフィシャルイメージは、礼儀や作法を知らず、荒々しく奔放な男といったところだろうか。そのために、頼朝に先駆けて京に上ったにも関わらず、最高権力者の後白河法皇(演・西田敏行)や公家たちとそりが合わず、最終的に没落に追い込まれてしまったというのが、義仲の一般的なイメージだろう。

そもそも、義仲が田舎者ゆえ、京の人々の顰蹙を買ったというのは、『平家物語』の記述による。

「(義仲の)立ち居振る舞いの無骨さ、話しぶりが洗練されていないのは甚だしい。2歳より30歳になるまで木曽の山里で暮らしたのだからしょうがないことだ」

そう語る『平家物語』は、具体的な事例として、義仲のもとを公家の藤原光隆(猫間光高)が訪ねたとき、義仲に愚弄された逸話を紹介する。「猫間」とは屋敷のおかれた地名で、藤原光隆は「猫間中納言」と呼ばれていたという。義仲はこの猫間という名乗りを面白がり、高位の公家である光隆を「猫殿、猫殿」と呼ばわった。昼時だからというので、義仲は「猫殿」をうず高く盛られた飯や平茸の汁などでもてなした。

しかし、当時の都の公家は朝と夜の二食が常識だったので光隆は戸惑うが、木曽育ちの義仲は一向に気にせずに食べるように促す。しかし、食事の椀が汚いことに躊躇した光高が箸を付けずにいると、義仲は「猫殿は小食か。猫おろし(食べ残し)をしている。遠慮せずに食べろ」などとさらに勧める始末。光高は辟易して退席したという。

もうひとつ『平家物語』が語る義仲が牛車に載ったエピソードは『鎌倉殿の13人』でも取り上げられた。

院の御所に向かう義仲が、腰をかがめて後ろから牛車に乗り込む。目的地についた義仲は、乗車時と同じく後ろから降りようとする。これを見ていた周囲の者が義仲を止める。牛車は後ろから乗り、前から降りるものです、と。

恥をかかされた体の義仲だが、まったく意に介さず「いくら牛車でも、素通りは無礼であろう」と言って、後ろから飛び降りたという。

牛車に乗るときは、牛車をバックさせて建物の縁側に密着させ、縁側から直接、乗り込む。そして降りるときは、牛車を引いていた牛を取り外し、前方に傾斜した牛車の前から降りるようになっているのだ。

しかし、こうした義仲の「無作法」ぶりは、あくまでも『平家物語』の作為を含んでいるので、すべてが事実とは限らない。むしろ、ことさらに義仲を無作法者、田舎者として描こうという底意が感じられる。

公権力のルールを知っていた義仲

では実際の義仲はどのような人物だったのか。

中世における土地の領主は、公家であれ武家であれ、その上部権力によって土地の領有を認められることによって経済基盤を確保していた。つまり、土地は「切り取り次第」ではなく、その土地の領有を安堵される(保証される)ことによって、土地から上がる税収を得ることが正当化されたのだ。

逆に言えば、土地の所有を安堵することができるのが、公権力としての資格であった。力のない権力者がいくら土地を安堵してくれても、さらなる実力者が「その土地は俺のもんだ」と横やりを入れれば守りようがない。「この土地は〇〇様に安堵された土地だ」とアピールすれば、相手も恐れ入って手を引く。その力がある者が、権力者として認められたのだ。

富山大学講師の長村祥知氏によれば、信濃(長野県)で兵を挙げた義仲は、平氏方との戦いに連戦連勝すると同時に、勢力圏を広げてきた。土地土地の豪族、武士たちが配下に加わる。義仲は彼らの土地を安堵して、その生活と収入を保証することで、彼らの指示を取り付け、彼らを自らの軍事力として再編していったという。

それまでは平家が政権を握っていたのだから、賊軍=反乱軍だった義仲は、京都に入ると左馬頭・伊予守という官位を得て「官軍」の地位を獲得する。公権力の担い手となった義仲は、平家から没収した土地、平家没官領を獲得し、それを地方の領主に安堵するということも行なっている。武力に物を言わせて土地を安堵するだけでなく、朝廷と直結する公権力としての振る舞いを始めていたのだ。

さらに義仲は、後白河院はもちろん、八条院、松殿院といった朝廷の実力者・権威に接近し、彼らの権威を自らの公権力行使——具体的には土地の差配などに積極的に利用していた。京や朝廷のやり方に無知・無関心だったとするイメージは、かなり塗り替えなければならないようだ。

軍事貴族・京武者との関係

一方で、この新たな公権力の登場は別の波紋を呼ぶ。もともと京都周辺を支配していた軍事貴族や京武者と呼ばれる朝廷に仕える武士たちは、平家の権力に対抗するためにいったんは義仲と連携していた。しかし、やがて彼らが朝廷から受ける恩賞にも義仲が口をはさむことで、彼らを自分の配下として従えようという義仲の動きに反発するようになる。

そして、軍事貴族や京武者との対立は、義仲の権力基盤を揺るがしはじめる。こうなると、当初は義仲に好意的だった公家や後白河院も、義仲と距離をおくようになる。

やがて、平家追討のために西国に出陣した義仲は、戦果乏しく帰京する。そして寿永2年(1822)11月、頼朝の台頭を見越して義仲を見限ろうとする後白河と決裂し、後白河の御所、法住寺殿を攻撃し、勝利を収めた(法住寺合戦)。ちなみに法住寺とは、当時すでに焼失していた寺で、その跡地に建てられた院の御所を法住寺殿と呼んでいた。

後白河と義仲の対立を決定的にしたのは、皇位継承問題だったと指摘されている。平家は西国に逃げる際、安徳天皇を連れて行ってしまい、京都には天皇が不在となっていた。後白河はこの由々しき事態を解消するため、代わりの天皇を立てようとする。義仲は、自らが推戴して京に連れ戻った北陸宮を次の天皇に推していた。もちろん、自分の政治力を増して、権力基盤を固めるためだ。

しかし、皇位継承は天皇家の家長たる治天の君=後白河の専権事項であったため、後白河は義仲の政治的な野望に激怒したという。結局、皇位継承者は卜筮(くじ引き)によって決められる形式をとり、事実上は後白河の意思によって高倉天皇の皇子である尊成親王(後鳥羽天皇)に決まった。

法住寺合戦で後白河を押し込めた義仲は、平家没官領だけでなく、後白河に仕える院近臣や摂関家の所領も没収して経済基盤を固め、一方で後白河に強要して征東大将軍、院御所厩別当といった軍事を専門とする高官の官職につき、その権威で新たな政権を作り、頼朝に対抗しようとした。

ちなみに、このとき義仲は征夷大将軍に就任していたと、かつては考えられていた。しかし、近年の研究では征東大将軍であったことが明らかになっている。

一方で後白河を軍事的に制圧しておきながら、一方でその後白河によってもたらされる権威にすがる。義仲の対応は、すでにチグハクであった。先に、義仲と対立するようになったと記した、畿内近国を支配する軍事貴族や京武者らは、頼朝が派遣した源範頼・義経軍にすでになびいていた。義仲の敗北は、もはや決定していたのだ。

義仲が、京や朝廷の作法を知らずに批判されたのは、ある程度は事実だったのかもしれない。しかし、それで後白河や公家から嫌われて没落したとするのは、あまりに表面的な見方なのかもしれない。

【参考文献】
長村祥知「木曾義仲——反乱軍としての政庁と官軍への転換」(『治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立』清文堂出版)
上杉和彦『源平の争乱(戦争の日本史6)』(吉川弘文館)
山本みなみ『史伝 北条義時』(小学館)

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安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。 北条義時研究の第一人者山本みなみさんの『史伝 北条義時』(小学館刊)をプロデュース。

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