渡宋を計画する
実朝が渡宋を計画していた時期は、建保元年(1213)もしくは建保5年(1217)などと言われ、時期は曖昧です。その背景にあったものは、東大寺大仏殿を再興した宋人、陳和卿から前世が宋国医王山(いおうぜん)の長老であったという示唆を告げられたこと。実朝は感激し、渡宋を夢見るようになったそうです。
しかし、その渡宋の計画は失敗に終わりました。その後も、御家人を代わりに宋へ派遣しようとしたり、仏舎利を求めたりしたという言い伝えが残っています。
このことからも、日本や政治の外に希望を見出そうとする実朝の孤独や絶望が分かるのではないでしょうか。また、同時に和歌にも情熱を注ぎ続けており、この頃、実朝の家集である『金槐和歌集』も成立したのではないかとされています。春・夏・秋・冬・賀・恋・旅・雑に分けた663首を収めており、実朝の万葉調の絶唱が数多く含まれているのが『金槐和歌集』です。
重厚感とおおらかさを感じる実朝の歌は、数多くの文学者から評価されています。気になった方は、ぜひ『金槐和歌集』を手に取ってみてください。
異例の速さでの右大臣に昇り詰める
苦悩の多かった実朝ですが、晩年近くから官位の昇進を強く望んでいたといわれています。実朝は、このことに対して「源氏の正統は断絶するから、せめて家名を挙げておきたい」と述べていたようです。この言葉からも、実朝のおかれた立場の複雑さや実朝の気持ちが伺えます。
承久元年(1219)、とうとう実朝は右大臣のポストに。しかし、それは、身分不相応の高い位を与えて自滅させる「官打ち」を朝廷側が狙ったものなのではないかとされています。
兄頼家の遺子・公暁によって暗殺される
同じく承久元年(1219)1月27日、右大臣昇任の拝賀のために鶴岡八幡宮に参詣します。しかし、この時兄である頼家の遺子、公暁によって社頭で暗殺されてしまうのです。暗殺の背景には、北条氏や三浦氏などが関係しているのではないかという説がありますが、真相は謎に包まれています。
実朝が暗殺された時、実朝は28歳でしたが、彼の御家人のうち100余人が実朝の死を悼んで出家したとされています。このことから、実朝暗殺がもたらしたショックはかなりのものであったことがわかります。
まとめ
若くして将軍の責務を背負わされながらも、実権を握ることが叶わず、御家人の信望が薄らいでいくなかで、孤独な人生を送っていた実朝。実際、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』には幼い頃の実朝は、母政子の計らいにより物事が左右されていたという記載が見られます。このような苦悩が多い人生だからこそ、和歌や管弦、蹴鞠といった雅な京文化に心惹かれ、癒しを求めたのではないでしょうか。
「大海の磯もとどろに寄する波われて砕けて裂けて散るかも」
この歌からも実朝の感受性の豊かさ、言葉の壮大さや力強さがを感じられます。孤独と苦悩の中で醸成された実朝の歌は、今でも私たちの胸に響き続けているのです。
文/清水愛華(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)