立川志の輔さん(落語家)

─伊能図完成“200+1年”記念の創作落語『大河への道』が映画化─

「同じ演目を喋り続けるのは大変ですが、微妙に変化する作品を愉しんでやりたい」

古典落語から演劇的な要素も加えた新感覚の創作落語で全国のファンを魅了。新春は、映画化も進み注目必至の志の輔らくご『大河への道』の公演に全力投球するという。

──創作落語『大河への道』が再び話題です。

「初演は2011年の演目なんですが、2021年は伊能忠敬の日本地図完成から200年の節目ということで、彼に対する世間の注目度がかなり高まっています。明けて2022年は、伊能図完成“200+1年”ですが、渋谷パルコ劇場1月恒例の『志の輔らくご』にて、『大河への道』をあらためて披露することにしました。忠敬は江戸時代後期に、日本国中を初めて測量して歩いて、『大日本沿海輿地全図』という精密な日本地図をつくり上げた。そのために彼が55歳から73歳までの17年間に歩いた距離は地球一周分にも及んだわけです。その偉業をテーマにした創作落語が『伊能忠敬物語─大河への道─』です」

──映画化の話も公になりました。

「かなり早い時期から中井貴一さんが“映画にしたい”と熱心に言ってくれましてね。撮影はすでに終わっていて、やはり伊能図完成“200+1年”の来年(2022年)5月頃に公開予定だと聞いています。出演は中井貴一さん、松山ケンイチさん、北川景子さんら。私も面白い役どころで出演させていただきます」

2022年公開の映画『大河への道』から。主演の中井貴一さんを始め志の輔さん(写真)ら登場人物は、江戸人と現代人の二役を演じる。 (C) 2022『大河への道』フィルムパートナーズ

──なぜ伊能忠敬を落語のテーマにしようと。

「15年ほど前でしたか、千葉で落語会を行なった帰り、今の香取市佐原にある伊能忠敬記念館に立ち寄ったんです。そのときは、日本地図をつくった人として教科書に載っていた程度の認識しかありませんでした。でも、記念館の大型パネルに1821年に忠敬と弟子が完成させた日本地図が浮かび上がって見えて、そこに衛星から撮影した日本列島の姿がゆっくりと重なった。その瞬間の映像を見たとき、思わず鳥肌が立ったんです。衛星写真との誤差はわずか0.2%しかなかった。まだ黒船が来る前、西洋の測量機材も使わず、“地球の大きさが知りたい”とひたすら歩き続けた男がつくった日本の地図がこの出来映えなのか……と。明治維新まで40年、否応なく“国土”が時代のテーマになる直前に登場した忠敬は、天文学の神様が日本に遣わした人間じゃないか。その驚天動地の“鳥肌”が、この作品の原動力でしたね」

──落語としては壮大なテーマですね。

「いろんな新作をつくってきましたけど、『大河への道』はつくり方も、かかった年数も、出来上がりも、これまでとは異質な作業になりました。登場するのは江戸の昔に地図づくりの難事業に打ち込む忠敬たちと、そんな故郷の偉人をNHKの大河ドラマにしようと奔走、奮闘する千葉県庁の人たち。結果、江戸と現代が交差するような構成になったのは、落語の中に、どうしても忠敬本人を登場させることができなかったからです。これは高座を見ていただいてからのお楽しみということで」

──何が突破口になったのでしょうか。

「忠敬の日本地図が完成して幕府に上呈されるのが文政4年(1821)ですが、その3年前に彼は亡くなっていた。でも、彼の死は地図完成までは公表されていない。一体、この3年は何だったのかというミステリーを軸にしました。地図は未完成なのに、忠敬が死んだとわかれば、幕府は止めにかかるんじゃないか。だから、死を隠して地図の完成を急ぐ弟子たちがいて、それを怪しむ幕府の役人がいて、というようなことを落語的に描けたら面白い。あれ? なんだかどんどんあらすじを喋っていませんか? どうぞ、来年の1月に約1か月間にわたって、渋谷パルコ劇場にて『大河への道』をやり続けますので(※公演は2022年1月5日~31日まで。問い合わせはパルコステージ 問い合わせ:03・3477・5858)、楽しんでいただけたら幸いです」(笑)

──約1時間半にも及ぶ大作なのですね。

「年明けのパルコ劇場では『大河への道』と別の落語の計2時間半の公演を、1か月で計20回やる予定です。正直、同じ演目を毎日喋るのは、落語家としては大変なんですが、コロナ禍の今は“生の落語”が1か月もできるのは、なんて幸せなことなんだと思えます。『大河への道』は“志の輔らくご”のなかでも、お客様の空気感で、微妙に変化する作品なので、一日一日がスリリングな高座を愉しみながら、やり切ってみたいと思います」

小学館『ビッグコミックオリジナル』11月増刊号から『大河への道』(原作:立川志の輔、漫画:柴崎侑弘)の連載も始まった。伊能図をめぐる壮大なストーリーが描かれる。

「“面倒くせえなあ”と言いながら談志は舞台で言葉をかけてくれた」

──師匠の談志さんの没後10年ですね。

「亡くなって10年、ということは師匠との思い出は、約30年間ということになります。世間がイメージしている通り、厳しい師匠でしたが、その実、優しい面がたくさんある師匠でしたね。一番嬉しい思い出といえば、パルコでの公演を始めて15年ぐらいたった年の公演に、突然やってきて客席で観てくれたことですね。師匠が来ていることを知らされましたが、まさかずっと聴いていてくれるとは思わなかったので、カーテンコールのときに“師匠の談志が来てくれていたらしいのですが、でももう呆れて帰ってしまったと思いますけど”と言ったら“いるよォ!”と、客席から大声で返事があって(笑)。舞台に上がってもらうようお願いしたら“面倒くせえなあ”と言いながらもステージに上がってくれて“こいつが、毎年ここで1万人を集める落語をやっているっていうから、ウソだろうと思って来たら、まあ、これなら客も来るわな”って、談志流にほめてくれて。最後は三本締めの音頭までとってくれたんです。この優しさは弟子としては痺れますよ」(笑)

──なぜ談志さんの弟子になったのですか。

「学生時代は落研(落語研究会)にいて、卒業後“落語家になりたいな”と思いながらも、なかなか飛び込めずに、劇団の養成所に通ったり、広告の世界でサラリーマンを体験したりと。そうこうしながら29歳のとき、吸い寄せられるように談志の門を叩きました。ところが、半年後に師匠が落語協会から脱退を決意して『落語立川流』を立ち上げることになったんです。そりゃ驚きましたよ。ですから私以後の弟弟子たちは立川流になってからの入門なので、寄席に出演しないということが決まっていることを知って入っていますが、そうなるとは知らずに入った“立川流一番弟子”が私になってしまったわけです」(苦笑)

平成2年(1990)、落語立川流真打に昇進した祝いの席で。志の輔さん(右)と家元の立川談志さん。入門のきっかけは、談志ひとり会で『芝浜』を聴いて魅せられたからだ。

──つまり寄席という拠点がなくなった。

「師匠には“喋る場所は自分で探せ、とにかくお前は立川流実験第1号だ、思いっきりやってこい、売れてこい”と、とんでもない檄を飛ばされました(笑)。なので、テレビやラジオのレポーターに始まり、無我夢中でいろんなことをやりました。師匠は、落語はもっともっと広がるべきだ、と思っていたでしょうから、あれから40年、今はご存じのように、他の協会の先輩方や勢いのある若手の人たちの努力もあって、日本中で、その頃は想像もできなかったぐらい多くの落語会が行なわれています。ですから、いま頃師匠は天国で“ほらみろ、オレのいう通りになっただろ”って威張っているんじゃないですかね」(笑)

──再来年は落語立川流40周年です。

「ということは、私の落語家生活も40周年を迎えるわけですね。ちょっと疲れ気味のわけですね(笑)。ちょうど私と同じ年の頃の師匠が、よくこう言っていました。“頭はこうしろと言っているのに、体は動かない。こう喋りたいのに、口はその通りには回らない。頭と体がチグハグで、こんな辛いことはない”って。最近、師匠の辛かった状態が、ちょっとずつわかってきたようです。歯の治療ひとつでも滑舌が悪くなって、どの台詞のとき、どこで唾液を呑み込むかというタイミングも前とは違ってきますから」

── 煙草はおやめになったそうですね。

「やめてもう10年以上になります。それまでは一日100本は喫ってましたからね。ところがあるとき、いつものようにスムーズに声が出ない。風邪かなと思いながら、行きつけの耳鼻咽喉科で診てもらったら、いつもは“もう少し煙草を減らしましょう”と苦笑いしていた優しい先生が、そのときは真顔で“煙草やめるか、落語やめるか、どっちかにしないと、声帯終わるよ”と苦言を呈されましてね。その一言でピタリとやめました。それまで何十回も禁煙に失敗していたのに、あの一言でいまだに続いているんです」

──健康を保つ上で何かされていますか。

「ゴルフくらいでしょうか。ほかにも何かないかと探しているんですが、テレビでいろいろな健康法を人に勧めているのに“自分は何もしてないんですか!?”って言われるのが癪でなかなか人に聞けない(笑)。ただ、コロナ禍になってから、散歩をするようにはなりました。あとは『ガッテン!』でも放送した“踵落とし”。つま先で立ってストンと踵を落とすだけの単純な運動です。骨の再生と老化防止につながるようなので、気がつけばやっています。この前、舞台袖で出番を待っている時、その劇場のスタッフさんが踵落としをやっていたんです(笑)。嬉しかったですね」

東京・浜松町の文化放送で。自身がパーソナリティをつとめる人気番組『志の輔ラジオ“落語DEデート”』(日曜7時~7時55分放送)の収録。ゲストと繰り広げるトークに笑いが炸裂する。

「落語というシンプルな芸の深さをコロナ禍であらためて感じました」

──最近はネット配信の落語も増えました。

「はい、私はまったく知識がないので、まだ体験はしていないのですが、お弟子たちは盛んにやっているようです。その体験談を聞かせてくれるのですが、観客のいない、一台のカメラに向かって喋り続ける、当然反応もないそんな中で演じきる難しさは、ものすごい勉強になると思うのです。落語が基本的には、観客とのコールアンドレスポンス(掛け合い)で出来上がっているということも、口でどれだけ説明されるより、ネット配信を体験すれば理解できてしまうでしょうね。お弟子たちの時代は大変ですね。いや、私も一度やってみるべきだな、とも思っています。その意味では、悔しいですが、コロナ禍が落語に与えた良いショックと言えるかもしれませんね」

──ある意味、いい刺激があったと。

「すべてのエンターテインメントがコロナ禍で気が付いたことは、いままで当たり前だと思っていたことが当たり前じゃなかったんだってこと。コロナ前は、普通にチケットを売って、普通にお客様が来てくれて、普通に公演が終わってゆく、という日常でしたが、実はこれがすごいことだったんだってこと。目の前からお客さんが消えるなんて夢にも思わなかった。でも、その状況を目の当たりにして、当たり前のことだけれども、お客様を前に生で喋ることができるのは、なんて有り難いことなのかと痛感させられた。たとえば、マスク着用で席を空けて、少ないお客様の会場での高座を経験しましたが、その時のお客様の集中力が物凄くて、本当にやり応えがありました。こんな制限だらけの中でも、生で落語を聴きたいと思ってくださるお客様のパワーに圧倒され、同時に、落語というシンプルな芸の深さをあらためて痛感しました」

──この先は何を目指されますか。

「師匠の談志は“落語は業の肯定である”をはじめ、いろいろな言葉を教え残してくれましたが、私がいちばん印象に残っているのは『落語とは、俺である。』という著書のタイトルなんです。弟子にしてみれば、そうだな、と思える師匠の言葉も、普通の感覚で見れば、なんて傲慢な言い草だと思う人がほとんどじゃないかと思います。でも真意はそうではなく、落語家は誰しもが“俺が落語だ、落語は俺だ”と思ってやらないでどうするんだ、“お前が落語だ”といわれる落語をやっていけ、そうでないとお前が落語家でいる意味がない、と言い残してくれたんだと解釈しています。最高の言葉を残してくれたと思います。いま一番気に入っている言葉でもあります。あと何年経ったら“落語とは、俺である”と胸を張って言えるようになるのか、まあ楽しみに聴きにきてやってください」

志の輔さんは無類の読書好き。いつも本を持ち歩いて手放さない。「週刊誌の書評を見て買う買わないを決めるんです。巧い書評は本を読んだ気にもなるし、有り難いですね」

立川志の輔(たてかわ・しのすけ)
昭和29年、富山県生まれ。明治大学在学中は落語研究会に所属。卒業後、劇団や広告代理店勤務を経て、昭和59年に七代目立川談志に入門。6年後の平成2年5月、落語立川流真打に昇進。全国各地での落語会の他、『ガッテン!』(NHK)を始め、テレビやラジオのパーソナリティとして活躍中。古典落語のみならず、『歓喜の歌』『メルシーひな祭り』等の新作落語を多く発表。受賞歴多数。

※この記事は『サライ』本誌2021年12月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工)

 

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