3代鎌倉殿の実朝と妻が花見をした鎌倉一の大伽藍・永福寺跡。

北条義時(演・小栗旬)を主人公とする2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。武家政権の基礎を固めた義時だが、その人生は周囲の魅力的な女性たちが彩った。北条義時研究で注目される新進気鋭の研究者の目を通じて、時代の潮流変化を生き抜いた人々の人間模様を活写する。

* * *

公武融和の象徴として

3代鎌倉殿・源実朝の名は、歴代の鎌倉殿のなかでも、初代源頼朝に次いで有名である。では、実朝のもとに京都から嫁いだ女性の存在をご存知だろうか。

実朝の妻となったのは、京都の貴族坊門信清(ぼうもん・のぶきよ)の娘である。坊門家は、信清の姉殖子(七条院)と高倉院との間に生まれた皇子が即位し、後鳥羽(ごとば)天皇となったことから、急速に台頭した一族である。信清は、後鳥羽と順徳(じゅんとく)の後宮に娘たちを入れ、後鳥羽の側近として活躍していた。

一方、鎌倉では、1203年に幼い実朝が新しい鎌倉殿に擁立され、祖父の北条時政がその後見として幕府政治を主導していたが、早くも翌年には、実朝の婚姻話が持ち上がっていた。

ここで、実朝の御台所として白羽の矢が立ったのが、信清の娘である。実朝より1歳年下の彼女は、12歳にして親元を離れ、遠く鎌倉の地に嫁ぐことになった。

この婚姻の成立に、時政の後妻・牧の方(演・宮澤りえ/役名りく)の尽力のあったこと、また牧の方の娘と坊門家の婚姻が前提となっていたことは、すでに述べた通りである。

この婚姻によって、後鳥羽院と鎌倉殿実朝は義理の兄弟の関係となり、朝廷と幕府の関係はより親密となった。京都と鎌倉を繋ぐ坊門家と源氏将軍家の婚姻は、公武融和の象徴であったといえよう。

なお、彼女の本名(偉=いみな)については、「信子」とする説が流布しているが、史料的根拠のある呼び名ではない。『尊卑分脈』によれば、「信子」は信清の妹の名であり、娘ではない。したがって、不明といわざるを得ず、「実朝の妻」と呼ばざるを得ない。

実朝暗殺の衝撃

鎌倉では、鶴岡八幡宮・永福寺(ようふくじ)・寿福寺など鎌倉近辺の寺社に実朝や政子とともに参詣し、幕府の安泰を祈るなど、鎌倉殿の正妻としての役割を果たした。実朝との仲は良好であったようで、『吾妻鏡』には、永福寺に花見に行き、桜の木の下を共に散策するなど、仲睦まじい姿が描かれている。

しかし、婚姻から10年以上経っても、二人の間には子がいなかった。義時や政子は、後鳥羽院の皇子を次の将軍として迎えるべく交渉を開始し、内諾を得ている。彼女にとっては、跡継ぎの出産という妻の役割を果たせず、精神的につらい時期であったかもしれない。

1219年正月、雪の降る鶴岡八幡宮で、実朝が甥の公暁の刃に倒れた。かくして、彼女は27歳にして未亡人となった。暗殺の翌日には寿福寺で出家して本覚を名乗り、しばらくして帰京したようである。ここから、活動の舞台は京都へと移ることになる。

本覚尼の居所は、京都西八条にある実朝所有の邸宅であった。したがって、本覚尼(ほんがくに)は西八条禅尼(にしはちじょうのぜんに)とも呼ばれる。ここは、もともと平清盛の妻時子たちの住んでいた西八条邸があった場所である。当時、貴族女性の離婚・再婚は一般的であったから、本覚尼は亡き実朝の菩提を弔う道を選択したということができる。悲惨な最期を迎えた夫への同情の気持ちもあったのかもしれない。

京方と幕府方の戦い

1221年、後鳥羽院は北条義時の追討を全国の武士たちに命じた。これを承久の乱という。一時とはいえ、鎌倉に住んでいた本覚尼の心中は察するに余りある。このとき、兄忠信は京方につき、乱後、処刑されることになったが、兄の助命を政子に願い、許された。『承久記』には、本覚尼の嘆願を憐れんだ政子が「それならば、忠信を助けましょう」と言ったとみえている。

遍照心院の成立と置文

1231年、本覚尼は西八条邸の寝殿を堂にし、遍照心院(へんじょうしんいん/西八条御堂とも・現在の大通寺)とした。開山は廻心房真空(えしんぼうしんくう)(1204~68)という律僧である。ここに、遍照心院は真言律宗の寺院として成立した。

その後の本覚尼の動向は、1271年に80歳を迎えた彼女がしたためた2通の置文(遺言状)から窺うことができる。内容は、おおよそ次のとおりである。

・遍照心院は、将軍家の祈祷寺である
・僧は自分を母のごとく頼んで、仏道修行をしている
・犯罪者が遍照心院の領域に走り入った時、他者はこの者に狼藉を加えてはいけない
・遍照心院や寺領に問題が発生した場合は、安達泰盛に訴えて、将軍に申し上げなさい

ここから、本覚尼が亡き実朝の菩提を弔う日々を送っていたことや罪を犯した武士を保護し、朝廷や幕府に引き渡していたこと、また幕府とのパイプを引き続き有していたことなどがわかる。また、実朝との間に子はいなかったが、実子のごとく修行僧たちに目を掛けていた様子も窺うことができる。

82年の生涯

1274年9月、本覚尼はこの世を去った。享年82の大往生である。この翌月には、モンゴル襲来(文永の役)が迫っており、本覚尼は鎌倉前・中期という長い歴史の目撃者でもあったといえる。

その生涯を振り返ると、鎌倉での結婚生活は、わずか16年にすぎない。実朝の死後、50余年の人生を夫の菩提を弔うことに費やしたのであった。夫の菩提、そして幕府の安泰を祈り、寺内で武士を保護するなど、公武融和に心を砕いた人生ということができよう。

先ほど触れた置文のなかで、80歳に至った人生を振り返って、本覚尼は次のように述べている。この一文からは、激動の時代を生き抜いた諦観のようなものが感じられる。

「我すでに春秋を送ること八十年にみてり、人間の無常いくばくか眼(まなこ)にさえぎるおりにふるゝあわれごとに、身をかえりみる思いふかし」

後鳥羽・源実朝関係系図

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山本みなみ/1989年、岡山県生まれ。中世の政治史・女性史、とくに鎌倉幕府や北条氏を専門とし、北条義時にもっとも肉薄していると学界で話題を集める新進気鋭の研究者。京都大学大学院にて博士(人間・環境学)の学位を取得。現在は鎌倉歴史文化交流館学芸員、青山学院大学非常勤講師。『史伝 北条義時』刊行。

 

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