幕末から明治・大正・昭和の初めを生きた渋沢栄一。彼の足跡は実業界だけでなく、民間外交・教育・福祉と多方面に広がる。91年の多彩な生涯を追う。
実業界に転じ、500近い会社を立ち上げる
渋沢栄一は、新政府の改正掛で作成したプランを実現するために、企業の立ち上げについて何人かの実業家に相談した。ところが彼らは《新規の工夫とか、事物の改良とかいふことなど思ひも寄らぬ有様だつた》(『青淵回顧録』※「青淵」は栄一の号)。
実業界には信頼できる人材がいない。それなら自分がやるしかない。それが、大蔵省を辞めた本音だったのだ。
退官してわずか1か月後、彼は第一国立銀行(現・みずほ銀行)を設立。わが国初の民間銀行だ。
「栄一は改正掛のとき国立銀行条例を作っています。すでにその頃から銀行設立の準備をしていたのです」 と渋沢史料館館長・井上潤さんは語る。
驚くほどのスピード感だ。
その後、栄一は東京株式取引所、東京手形交換所、東京興信所などの開設にかかわり、金融のインフラ整備を進めていく。
帝国ホテルの発起人
栄一は早くから製造業の設立にも取り組んだ。
最初に手がけた本格的な製造業は、紙をつくる抄紙会社(現・王子ホールディングス)。栄一は紙幣や債券、新聞・雑誌などの増加を予想し、洋紙の国産化が不可欠と考えていたのだ。
明治12年(1879)、第18代アメリカ大統領のグラント将軍夫妻が世界一周旅行の折に日本に立ち寄った。栄一は民間の接待役を務め、日本に外国人をもてなす施設が不足していることを痛感した。
明治20年(1887)、栄一は東京ホテル(1890年の開業時に帝国ホテルと命名)の発起人総代となり、後に理事長から、取締役会長に就任している。
渋沢栄一が生涯に関係した会社は約500社。その多くはいまも健在で、日本の基幹産業は渋沢によって育てられたといえよう。
※この記事は『サライ』本誌2021年2月号より転載しました。