幕末から明治・大正・昭和の初めを生きた渋沢栄一。彼の足跡は実業界だけでなく、民間外交・教育・福祉と多方面に広がる。91年の多彩な生涯を追う。
明治政府の「改正掛」として新生日本の姿を描く
渋沢栄一は2〜3年フランスに滞在する予定だった。しかし徳川幕府が崩壊。急遽帰国し、静岡に蟄居していた慶喜の元へ戻った。
栄一は静岡藩の財政再建を任された。すぐに銀行と商社を兼ね合わせた「商法会所」を立ち上げた。成果を上げたが、明治新政府に出仕することになった。
栄一は出仕の条件として、政府に「改正掛(がかり)」の設置を求めた。有能な若手を集め、新しい国造りのプランを作成するためだ。
渋沢史料館館長・井上潤さんは語る。
「いまでいうプロジェクト・チームです。テーマごとにエキスパートを呼んで企画を考える。省庁横断で絶えず12人くらいが集まっていた。郵便制度を確立した前島密も栄一が声をかけたひとり。いま私たちの生活基盤となっているものは、ほとんどがこの時期に計画されました。わずか2年間で200件もの企画を立案しています」
栄一は、大蔵省で国家予算にもかかわるようになる。上司は大蔵大輔(大蔵省次官)の井上馨。栄一がバンクの訳語「銀行」を定着させたのも大蔵省時代のことだ。
大蔵省を去り実業家に転身
国家予算に対するふたりの考えは「入るを計って出ずるを為す」だ。
「まだバランスシート(貸借対照表)のない時代、実に斬新な考えです。栄一はこれもパリで学んだのでしょう」と井上さん。
ところが大久保利通らはそれを無視して、軍備増強を主張した。ついに井上は失望し、大輔を辞任。栄一は、「それなら私も」と大蔵省を去り、民間の立場で世の中を支える決意をする。
※この記事は『サライ』本誌2021年2月号より転載しました。